自分のことは横に置いてみる

とことん自愛中・・・なんだけど、自分のことよりも、先ずは目の前の相手の気持ちを考えてみたいなと思った。

昔ある人が「みんな、自分自分自分なんだよね」と言ったことがあった。
私から見るその人は、けして自分を曲げない人だったから「あなたこそ自分第一で自分自分なんじゃないの?私の方が相手のことを考えてる」と納得いかない気持ちがあった。

でも違ったんだよね。
確かに私は相手のことを考えていたかもしれないが、その下にはいつも「相手を思いやることで相手を思い通りにしたい」という下心があったのだ。

一方その人は、その相手に好かれたいとか思い通りにしたいなんて気持ちはなかったように思う。
単に相手が困ってそうと思えば手を差し伸べる、以上。そんな爽やかな人だった。
そんな爽やかな人だからだろう、その人の周りにはどんどん人が集まった。

私もそんな爽やかな人になりたい。
一朝一夕でなれるものではないだろうけど、1日、3日、1週間、1ヶ月・・・と、そんなふうに暮らしてみたら自分がどう変わるか、実験感覚でやってみようと思う。

余計な言葉は却下

何も制限がなければ。
何でもできるとしたら。

洋服関係の仕事がしたいなぁ。
洋服が大好きなんだもの。

デザインや服飾関係の学校に行ったわけでもないし、その関係の仕事をしていたわけでもない。
特別おしゃれってわけでもない。
垢抜けてるわけでもない。
それどころか私の趣味は微妙かもしれない。

でも好きなんだよね。
洋服関係の服やサイトは何時間でも見ていられる。
今の仕事だって欲しい服のために頑張ってるようなもの。

今までは「洋服関係の仕事がしたいなぁ」「勉強したわけでも経験者でもない」→「今からでは遅すぎる」→「無理に決まってる」だった。

この青字の部分、もう必要なくない?

「洋服関係の仕事がしたいなぁ」
これだけで良い。
内側から湧く楽しいことをしていってみよう。

私が1番アドバイスしたい相手は私

ふと気づいた。

仕事上人にアドバイスすることが多い。
でも私、、、、、、、
自分でソレやってないじゃないの!

手前味噌ながら悪くないアドバイスしてると思うんだよね。
少なくとも本当にこうしたら良いよと思うことをアドバイスしている。そのアドバイスが相手の耳に届いていないようで歯痒く感じがちなんだけど、私が良いと思うことを1番無視しているのは私じゃないの!

その通り出来ない自分を許すのも自愛かもしれないけど、自分の言葉を大切にするのも自愛。
私が1番アドバイスをしたい人、聞いてほしい人は私だったような気がする。

誰かの言うことは聞かなくていいからさ(誰かも私のアドバイスを聞く必要はない)、私自身が言ってることには耳を傾けようよねー。

全部叶っている自分はきっと・・・

今欲しいもの、全部叶っている自分ってどんなだろうと想像すると、多分ポジティブシンキングとか引き寄せとかやってない。
腹が立ったら怒り、悲しい時は悲しみ、とてもワガママなんじゃないかな。
何か失敗しても、誰かに嫌われてもケロッとしてるだろう。

そりゃあ「叶えたい」ことだらけの自分と違って、全てある自分は「金持ち喧嘩せず」の如く大きく構えていられるだろう。
でも同時に、今よりもっとワガママでもあると思うんだよね。

怒る回数は減るだろうし、TPOや相手の気持ちも考えて怒りを発露するだろうけど、自分を矯正するために怒りを抑えるということはきっとしない。

 

自分に戻る時間の大切さ

ここ数日は細々とした用事があって、自分に返る時間が取れなかった。
そのせいか、気持ちが常に外に向いていて、外の状況に心揺れる日が続いた。

ようやく自分に戻る時間を作って落ち着いたら
外の状況に変わりはないけど、引っ張られていた気持ちが中心に戻った。
この中心に戻ると、なんだかよくわかりはしないけど大丈夫という安心感。ここに居ればいいんだという安堵感。とても落ち着く。

どんなに忙しくても、1日の中で自分に戻る時間は大切だな。

こうやってブログを書きながら、時々目を閉じて自分の中心を感じる。
ここにあるのに、なぜ外を探したんだろうな。

本来の世界=「特別で得難いもの」がない

全てあるのが当たり前。

出世とか大金とか理想的な容姿とか愛に満ちた関係とか。
「特別で得難いもの」として認識しちゃってるから手に入らないんだよね。
それらは「特別で得難いもの」ということが実現している。

そんな認識をやめてしまえば、あって当たり前のもの。あるのが普通。これが本来の世界。

「特別で得難いもの」がない本来の世界って退屈だな(笑)
「何しよう。特にしたいこともないな」と、何だか今と変わらないっぽい(笑)
それらを甘美なものと思ってきたけど、いざ手に入ると今と同じような毎日なんだね。

何だか笑っちゃう。
ずっと心を過去や未来に縛り付けて何してたんだろうね。

一言一句、その通りだよ。
そこまでわかってはじめて、「今を生きる」ということがどれほど素晴らしいことか、
身に沁みてわかるんだよ。それまでは、ただの詭弁でしかない。

幸せなんてもう、求めなくていいんだ。そんなものは、ただの「刺激」だ。
幸せなど、さらなる「刺激」を求める心を生む、渇望と不幸のもとだよ。まさに麻薬。
そんなものに意味を見出す必要は、もうないんだよ。

やっと、気づけたね。おめでとう。
それでいい。あなたはそのままでいい。
もう何も得る必要はない。何もしなくていい。

子どもの頃に戻って、今を生きるんだ。

このページのラスト
そうだな。ホント、そうだ。

願望実現のためという名の肉襦袢を脱ぐ

洋服を買うのが好きで、ついつい散財してしまう。
とある憧れのショップがあって、常に新作をチェックし、財布と手持ちの服と相談するのが日常。

妥協して買ったもの多数のクローゼットが好きなものばかりに変わっていくのは心地良く、服はあるのに着る(着たい)服がない毎日から「今日はどれを着よう」と、同じ迷うのでもフィーリングが違う。
そのショップの服は私の毎日を豊かにしてくれている。

けれど。

「常に新作をチェックし、財布と手持ちの服と相談する」毎日。
楽しいのだけど、まるで中毒だ。

このパンツは手持ちの服どれにも合うから、このパンツさえ買えばもう何もいらないと思ったはずが、数日後には「このトップスを合わせるともっと様になるな」と、終止符だったはずのものが次々欲望を生んでいる。

仮に、今よりもっと自由になるお金が増えたとしても、おそらく同じことを続けるんだろう。同じショップでもっともっと買うか、購入するショップのランクを上げて同じことを繰り返すのだと思う。

 

詭弁さんのまとめを読んで、なんとなくこんなことを考えていて。
そして再度この詭弁さんのまとめ読んだら、450さんのレスが刺さった。

まさにその通りだw生活のほぼ全てが願望実現のために生きている
何か楽しいことも、やりたいこと見つけるのも、好きな物食べるのだって
「願望実現のために」心地よくなるためだもんなー
息苦しいけど、やめられない

自愛やらなんやらで叶えてきたこともあるけど、
一番大きな願望でこんなつまづくとは思ってもいなかった

108さんか誰かが、「エゴにとっての幸せは刺激だ」って言っていた意味が今よく分かるよ
渇望が病みつきなんだよね。達成した瞬間のために頑張ることが、美しく素晴らしいものなんだという信念
子供の頃から教えられてきた「頑張ることに意味がある」ってやつだね
実際なーんも意味ないのに、多分多くの人がこの信念を持っている

実際「幸せ」に度合いはないんだよ。全て等価。
大金を得ることもご飯食べることも道端の花が咲いて綺麗だなーって思うことも
でも「達成した瞬間の幸せ」を刺激的に感じたいがために、日常を憂鬱に暮らし頑張ることを強いられている
滑稽だわ、本当

でも、その意味の無さが分かったからこそ、いわゆる
「今を生きる」ってのが出来るんじゃないだろうかと思ったよ
一瞬の幸せじゃなく、日常的にある充足、幸福、それを味わって生きること
それが願望実現に一番近い、チケットで言う7章の状態

詭弁さん、気が付かせてくれてありがとう

これこれこれ。これ、まさに私!

生活のほぼ全てが願望実現のため。自愛だってそう。このブログだってそう。洋服だってそう。

願望実現のためという名の衣で着膨れしているようだ。
体の何倍もあるくらい大きくて思い肉襦袢を着ているよう。ミシュランマンみたい。

山の上に駆け上って「私、こんなに着膨れしてたー!」と叫びながら脱ぎたい気分。ていうか、脱いでいいんだ!

「脱いだよーーー!」
心の中でだけど、大声で叫んでいる。

 

記憶=言い訳のために作った捏造

何を感じていても何をしていても、豊かさは流れ込んでくる。くるというかきている。常に与えられている。それがデフォルト。本来のありよう。

そう仮定して本来のありようを感じていると、ふと浮かんだことがある。

記憶って、自分を変えない言い訳のために作った捏造じゃない?
原因探しも同じ。
無駄無駄、意味ないそんなこと。

いいんだよ、そんなものどーだって。
現実(と思っている妄想の世界)に留まるの?本来の世界に移るの?
どちらを選ぶかそれだけなんだな。