「する」のではなく、することを「やめる」

このブログ、「認識変更しました!」詐欺を幾度となく繰り返してきているので、「またか」という気もするけど、それでも、今度こそ、片足突っ込んだかもしれない。

いままでとは、次元の違う感覚になってきてます。

「全部エゴ」

8月になっても相変わらず「知識」を求めていろんな達人さんの記事を引用してきたけど、その中でも、よっしーさんの「全部エゴ」・・・ネガティブな思考を「エゴ」として対応するのではなく、すべてを「エゴ」と認識する、というメソッド(というか、習慣)が、一番効いている。

で、昨日あたりから急に理解が進んだのは

「生まれたときから(最初から)、全部エゴ」

とことと、

「思考・感情が出てきてから、どうこうするのではなく、心の中の思考感情を認識する前に、最初から全部エゴと決め込む」

という趣旨の動画を見てから。

自分が薄くなる

「ポノポノ」ってわけじゃないんだけど、結局「全部エゴ」って決めつけることが、自分自身だと思っていた存在の「クリーニング」になって、自分が薄くなってるんだんと思う。

「全部うそ」の感覚も近い・・・最後に愛が残る、という点も含めて。

勝手に愛は出てくる

「全部エゴ」というよりは、「(自分を含めた)世界のすべてが、本当の自分が生み出したもの」という感触になってくる。

そして、大きいのは、本願として握りしめていた、最愛の彼女に対しての気持ちも手放しができてきているというか・・・いや、現実世界の彼女に対する認識が薄れていっている、って言い方のほうが近いかな。「ネガティブ」な彼女への気持ちはもちろん、「ポジティブ(というか、期待)」のエゴの気持ちも手放し始めている。

エゴとしての彼女の気持ちを手放しても、本質的な彼女への愛は絶対変わらないから。むしろ、エゴが薄くなる分、より深く愛を感じられる気がする。

メソッドする=エゴの立場

「自分は意識」だ、って思いこもうと「してしまう」こととか、「今にいよう」と「する」こととかって、けっきょく「する」という行動が伴うものは、難しい気がする。

どんなメソッドであれ、「する」のはエゴだから

「自愛」にしても、「自己観察」にしても、「する」立場だから。

そして、もっといえば、「不足」を感じるから、メソッドを「しよう」となるわけで、「思考感情を認識する前に、最初から全部エゴと決め込む」というのは、

勝手に発生した思考感情に乗っ取られて、メソッドをしたくなる

その「きっかけ」になる、「思考感情に乗っ取られる」ことを止めている、ということなんだと思う。

いまにいる

ことにもつながる。

自分=世界

自分=世界って、「個人としての自分はいない」ってことだし、「最愛の彼女も、自分がつくりだした」みたいな感覚もしてくる。

変化を書き記したい

記事全部リニューアルしたい感の記事でも感じたことなんだけど、気が付けばこのブログも、260件ぐらいの記事があるんだけど、ざっと過去記事読み直していても、本質的な記事は数%ぐらいしかないような気がする。

桑田式、とかも、もう一回読み直したいな~。

たぶん受け取り方が違うはず

・・・この記事自体も、追記修正したいかも、だけど、これからしばらくの自分の内面の変化って、すごく重要な気がするので、なるべく書き記しておきたいと思います。

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