ニュートラルを継続中ではありますが、3日ほど前に強烈な気づきがあった、こまけぇさんの記事をご紹介。
在り方
つまり、メソッド(ドゥーイング)そのものに力はなく、そのことで在り方(ビーイング)が変化するから、ドゥーイングに意味があるように見えるわけです。実際はおまじない程度のもので、ビーイングが変わらなければ意味がありません。つまりビーイングが変われば、ドゥーイングは必要ないわけです。
そういった意味で「なる」というメソッドはこのビーイングに直接アプローチするもので、言ってしまえば行動が不要どころか、むしろ行動する方が却って論理破綻のカオスとなってしまいます。そうですよね? 行動するということはその現状の立ち位置からずれたいからであって、叶っているという立ち位置なら決してそこから離れたいとは思わないからです。
ですから何かをしたいエゴちゃんに取って「なる」はシンプル故に難しいと言われ所以なのですが、なぜちゃんとなれないかというと、答えは禅問答のようですが、望む自分になれてないからなんです。結局、いつもの自分になってしまっているだけなんです。なぜいつもの自分に戻ってしまうのかといえば、不足を見た時にその不足(現実)を否定してしまうからなんです。
既に「なる」によって叶った充足の立ち位置にあるわけですから、嫌な現実が現れて、そこにエゴが不足を感じたその一連の出来事も叶った世界なんです。その不足を否定すると言うことは、今の自分の充足の在り方や叶っている世界を否定することでもあるので、それはつまりいつもの自分の立ち位置に戻ってしまうことになります。そしてまた望む現実を求め、振り出しから「なる」をしようとする。これはまさに「なる」とは似て否なる別物のドゥーイングな行為なんです。
エゴが不快に感じたからと言って、そこで不足を否定しちゃダメなんですね。エゴはただの誇大妄想野郎で、このエゴが勝手に決めつけた不足の現実を否定した瞬間、叶っていた世界も否定して、不足の立ち位置に戻っちゃうという「なる」の罠に引っかからないでください。
「なる」の罠 – こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!
何度も読んでいる記事だと思うんだけど、その数日前に読んだタイミングで、スコーンと頭に入ってきて
「あぁ、恐れなくてよかったんだ」
「恐れても良かったんだ」
って安心感と、
結局これまでは、「なる」をした後も、なんか、こまごまと行動してた、んだよな、って思って。
一度意図すれば、「意図しつづける」ことなんて、必要なかったんだ。
そのままの自分でよかったんだ!
って思った。
その後も、こちらの記事を何度も何度も読んでて、要は、これも自愛なんだと。
こまけぇさんが、過去の自分に対して「自愛をしてろ」と伝える、というのも、そういうことか、と。
同時期に読んでたイウォーク師匠も同じ、「カンペキングになれない私でも、完璧」なんだよなぁ、というところ
450 : 570と書いてイウォークと読む :2016/11/03(木) 21:39:16 ndM0m3BM0
「彼と復縁したい」「あの仕事したい」「綺麗になりたい」「オラこんな村ヤダ東京へ出るだ」「一生一緒に居てくれや」色々あるとは思いますがとりあえずそれは置いといて今から「カンペキングな私」にとりあえずなってみて下さい。とりあえず1週間でもいいよ。
なったらその瞬間から何があろうが「カンペキング」な出来事なので無抵抗でいて下さい
とりあえず1週間、それを徹底してやってみて下さい!
イウォーク師匠 9 カンペキングで無抵抗 | デフォルトが幸せ(イウォーク師匠 まとめ)
仕事でミスして上司に叱られた「カンペキングな展開だ!強ぇ~上司だな~!オラわくわくすっぞ~!!」カンペキングって心から思えなくて落ち込みそうかも「落ち込んだりもするけれど…私はカンペキングです♪キキ」
みたいにね。
もう何があっても全部「私カンペキングだからどうせ上手く行っちゃうんだよなぁ」以外考えない!
「自分=世界」とはつまり「今」
んで、「カンペキング」が出てきたところで、もういっちょ、こまけぇさんの記事を
「なる」と「完璧」を違和感なく結びつけるロジックがすごい
「自分=世界」とはつまり「今」です。ジャスト、ナウです。ですから、誰もがこの「今」だけを生きており、誰もそこからは逃げられないのです。
本来「今」というものは真っ白なキャンバスみたいなものです。算数で表すと、「現実」から「思考」を引いたものが「今」です。逆に「今」に「思考」を足せば「現実」です。
で、この「思考」は自由に選べます。「今」選んだ「思考」が「現実」になります。厳密に言えば思考というか在り方ですが、この辺のことは散々言ってるのでスルーします。
で、この思考って当然、目には見えません。目で見えないのに、なぜか私たちはそれが自分の肉体の中に納まっていると思い込んでいます。まあ、物心ついた時からの慣性の法則みたいなものですから、仕方ありません。
例えば「なる」というメソッドがありますが、スーパーマンになったとすると、その「なる」が自分の肉体のみに適用されたと思い込んで、「なっていない」景色(=現実)の中で「なった自分」を我慢強く貫かなくてはならないと勘違いしてしまいます。
そうじゃないんです。思考は肉体の内側にあるものではなく、肉体や見えている景色全てと溶け合っているものなのです(私の感覚的に)。ですから「なれ」ば、それは自分という個人(=肉体)だけではなく、それは当然景色にも適用されているわけです。つまり、現実に何が起こってもそれはなった世界なのです。これを逆の角度から捉えたものが完璧認定です。
この何が起こってもなった(叶った)世界ということを深く洞察していけば、「あー、なれてなかったわ」という思考すらも、それはなった世界のことです。
そこで「あー、なれてなかった」と止めちゃうと「あー、なれてなかった世界」に「なり」ますが、それもなった世界の出来事と処理してしまえば叶った世界のままです。その都度、もうなっているんだと思い出せばいいだけです。
思い出すということはそれが前提であるということの意識づけですから、在り方はぶれません
「現実」-「思考」=「今」すなわち、「今」+「思考」=「現実」|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!
なった世界のその後
こまけぇさんの記事読んで、確かに「なれた!」って瞬間、「世界がまるごと愛しくなった」って感覚があったんだよね。
そのこと自体も、うまく表現してくれてるのが、こまけぇさんのこの記事
まあこれは「なる」系の話なんですが、皆さんはなった時に基本的には現実をなるべく無視しようとするかと思います。でもなった瞬間にはなった世界そのものになっています。所謂、電車で言うところのレールが切り替わる感じです。
しかし、エゴの物理的なフィルターを通して現実が徐々に変わっていきますので、そんなにすぐに暗転して足元の雑草が花に変わるとかはないです。仙人みたいな人は別でしょうが。
でも、その雑草は紛れなくあなたの叶った世界の一部になっているわけです。普通はそんな雑草には気を留めないでしょうが、叶っている世界の雑草だと思えば愛しく思えませんか?
この感覚を例えれば、いつも通勤途中に何気なく通り過ぎていた駅が好きな人の最寄り駅だと知ったら突然に愛しくなったりしますよね? ならない方はすいません。
あれは駅に好きな人の菌を付着させて認識を変えているんです。駅を媒介として好きな人を味わっているんですね。認識の変更です。
この「好きな人の菌」の感覚を「叶った世界の菌」に置き換えるだけです。叶ったその世界の空気や匂いを今、叶っている世界の菌をつけて、リアルな体験として味わうんです。今、叶っている世界を意識だけではなく、五感でもって体験してください。
ドキドキしませんか? 世界が明るく見えませんか? すれ違う人すらも抱きしめたいと思いませんか? それは言いすぎか。
意識と五感、あなたの全てで叶った世界にダイブして、深く沈み込んで、その世界を肌でもって感じるんです。
「あれ、叶っていないと思ってたけど、もしかしてそれって嘘じゃない? そもそも叶うってどういうことだ?」と少しでも感じられたら、儲けものです。
叶っている世界菌を現実に付着させて五感で体感せよ!!|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!
何を優先するか?
「願望実現」を優先するか、「認識の変更」をしたいのか?
願望実現なら、もう「なる」しかないと思う。
コメント
[…] 書こうと思ってた記事、「なる」に関してと、「自分=世界」に関してなんだけど、そちらの記事よりも、自分にとって最も大事だったのは、この「ニュートラル」という概念だったのかもしれない。なぜなら、これまで、この「ニュートラル」に関しては、そんなに重要視していなかったから。 […]