ひさびさによっしーさんのブログで動画が更新されていた。
前回以降、「全部エゴとして気づく」の効果を、しみじみと感じていた。
たしかに、全部を「不完全なエゴ」として気づいていくと、「完璧」しか残らないよなぁ、と・・・
一方で、「でも、願望はどうしたらいいんだろ?」みたいな疑問も正直出てた。
「完璧だとしても、特定の願望をかなえたいんだ」
「だから、何かやらなきゃ!」
「やっぱり、意図しなきゃ」
みたいな。
そしたら、この動画の中で「設定」にも触れていたので、あぁ、なるほど、そこはありなのか、と。
ただ、それとは別に、
「自分と世界に、既に叶っているという、名札を張り付けるだけ」
という表現があり、ちょっと引っかかっていたんだけど。
叶っていないを叶えている
意外なことに、あの「なる」の701さんが、このことについて言及してた。
願望成就できないと悩む時=「叶っていない私」になっている時です。
「叶っていない私」は「叶っていない世界」を展開させます。【起きた現実+効果があるメソッド→望む未来】
一見真実っぽく見えるのでこう取り組んでしまいがちですが
この公式を採用すると「叶わない」ループにハマります。私がそうでした。
- 望む未来へ辿り着くために「叶っていない現実」が絶対条件となります
=「叶っていない現実」大前提の世界になるのでいつまで経っても叶いません- 効果が実感できるメソッドを見つける作業が始まります
=ただしどのメソッドを使っても上記の大前提がセットになってるので結局無意味です- 望みが叶う時期が「未来」なので「今は叶ってない」状態が更に強化されます
=どれだけ時が流れても受け取れません「叶っていない私」から「叶っている私」になるにはどうすればいいのか?
<自分が望んで「叶っていない私」を維持していた>ことに気付く これだけです。これに気付いた瞬間「私」と一体化していた「叶っていない私」は解除されます。
実は「叶っている私」こそが皆さんの真の姿です。「叶っていない私」は「叶っている私」が創りだしたものです。
皆さんの望みは既に「叶っている」んです。望んだ瞬間に成っています。
現象化してない~達成してない~と焦る必要もなくなります。なぜなら「叶っている私」になった瞬間、世界は「叶っている世界」と成るからです。
701式 ー望んだ瞬間から、何もかも全て創りだした叶った世界のモノ : Without the Mind
空が青いのも、オリンピックがロンドンで開催されているのも、「叶っている世界」だからです。
逆に、「なった」ら、その後はすべて「なった」世界、の説明にもなっていてすばらしい。
もう一つ、自己観察さんの記事を読み直していて、「おお」と思った記事。
自己観察さんはいろいろ書いてたけど、一番メインは
「別の領域にいることの大切さ」を伝えようとしてたと思う。
質問者にも、その人の感じてるのが別の領域なのか、そうでないのかを
アドバイスするのが本意だったような気がする。そして、そこにいるためには「思考や感情から離れること」が必要で、
だから思考や感情に気づくこと、つまり自己観察を勧めてたわけで。
別に思考を見ること自体には意味はない。気づいて離れるために見る。
それ以上でもそれ以下でもない。自己観察なんて「思考があることに気づく→思考から離れる」ただこれだけ。
意思の力で思考を見つめるとか、そんな力の入った事じゃない。その「思考に気づいて、そこから離れる」と、そこにあるのが別の領域だ、と。
そしてそこには何のスペシャル感もなく、特別な気づきもない、と。そこに行くのは超絶簡単。
故に、達成感を求めてやまないエゴがそれを、そのことを受け入れるのは超絶難しい、と。
特別な何かはないのだ、そしてその簡単で普通で当たり前の場所に、
本当に明確に気づく事が真の特別さだというような話を書いてたね。938 :幸せな名無しさん:2016/01/25(月) 14:12:49 ID:gV76MEWE0
外部の世界がニュートラルだってことは割りと把握しやすいと思う。
ところが、自分の問題になったときは個人的な感情が絡んでくるからなかなかそうは行かないよね。ところがだよ。
「私たちはもともと別の領域にいた」はずなんだよ。
「それがエゴと同一化して見えなくなっている」だけなんだ。よく言われる主張だがこれの意味するところはどういうことか?
これはね、自分の内面もすべてニュートラル=完璧だっていうことなんだ。
普通、私たちは不満や疑問を「解消しようとする」。すなわちなくそうとしてる。
この裏側には、自覚しにくいが「不満や疑問を感じたくない」
という拒否する気持ちが隠れている。ここで思い出すんだ「自分の内面もニュートラル」ということを。
不満や疑問はエゴ的には望ましくないものだが、
自己観察的に言えば観察する対象でしかない。
そして捻くれ者の観点から言えば自分で望んで作り出したものだ。だから、
拒否すれば再配達(自分で作ってるんだから当たり前だよな)。
自分は完璧だということを思い出して、エゴ的に負の感情を観察すれば、
拒否しようとしてしまうならまず「拒否しようとしている自分」を観察すれば、
受け取ったことになり次第に消えていく、というわけなんだ。
なぜなら出所であるエゴは有限だからね。ここでいきなり「消えないな~、だめだ~」となるのは、
消そうとしてる=消えないものは良くないものだ、消さなきゃ=受け取り拒否、というわけなんだ。エゴを見ている自分になれたら、これは別の領域だろうか?とか確認しなくてもOKだよ。
別の領域とは「エゴとは別の領域」なんだから、エゴから離れたら別の領域なんだよ。
これは別の領域?と確認することは別の領域の認識を取り下げることになる。そして「エゴとは」「別の領域」という意味だから「別の」と書いてあるが、
世界=自分、ということを考えれば、エゴも世界に包摂されているはずでしょ?
すなわちエゴも別の領域に包摂されているはずなんだよ。私たちはエゴと同一化しちゃって、不完全と思ってしまうが、
そう思うことすら実は別の領域に含まれていた=完璧だったんだ。(「だったら何もしなくていいんじゃないの」という疑問に対する答えは、
別の領域とは「エゴとは別の領域」なんだから、エゴから離れたら別の領域なんだよ | ザ・チケット板☆備忘録
「そうだけどエゴと同一化してたらしんどいでしょ」です。
捻くれ者やisaが言うには「認識の変更は必要」ということ。)
赤字の「これはね、自分の内面もすべてニュートラル=完璧だっていうことなんだ」ってとこがすごいよね。排除したかったネガティブを受け入れた上で、それすら、完璧認定している。
ネガティブを全否定している時点で、エゴと同一化してしまっているんだけど、内面のポジティブもネガティブも、全部あっていい、って認める立場だから、「どっちを選ぶ?」って話か。
さきこさんのいう、「すべてが喜び」の中から、「好み」を選ぶ、みたいな。
クリーニング
「全部エゴ」に気づいていく、という習慣は、ほんとに自分の「クリーニング」をしているような感覚になってくる。
エゴとの同一化を、ひたすら解除していく、ということなんだと思う。
同時に、「すべて叶っている」という前提であれば、ひねくれ式のように、「確かにこの現実を作ってたわ」って納得感が出てくる。望む望まないは別にして、不足のエゴと一体化していた、というのはわかる。
「叶っている」ことに、まったく違和感がなくなってくるのだと思う。
自分の行動面でも変わってきたところがあって、「実現しようとする行動を止めるもの」という気がしてきた。
結論これ
自分のブログ記事、引用回数No.1ではないだろうか?
当時からわかっていたことが、やっと最近納得できるようになってきた、ってことかな。
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