とんぺい、風邪をひく

彼女との予定がガチガチに詰まっている時期じゃなくてよかった・・・というのが正直なところ。

ただ、体がきついとなかなか「充足」モードではいられないというのも正直なところ。

ブログ書きたい欲

なんか書きたいことがあるんだけど、頭がぼんやりしてしまってます。でも、久々に高まっております。なんというか、今の認識で過去記事を精査して、必要なものをリライトしたい。

その中で、hyo-さんのブログを読み直していたら、こんな記事があって、なんだか考えらせられてしまった。

質問や相談を受け付けなかった理由 | とあるスピ廃人の色々

当初理想に思っていた「みんなで認識変更」的なところが、結果的にコメント欄が荒れてしまったきっかけでもあるので、もっともっと、自分だけの感性で突き抜ける必要があるんだろうな~

「自己重要感」というのも、非常に大事だとおもった。

「認識」の変更

いまさらなんだけど、「意識」の変更じゃなくってさ。「認識」の変更なんだよね。

「願望実現」だけだったら、これまで積み重ねてきたようなことはいらなかったのかもしれない。でも、明らかに変わった部分があるからこそ、そこをベースに「認識」を変更していきたい。

前もなんかであったけど、あたまぼーっとしてるときのほうが、素直に言葉が入ってくるのかも。

なる’っていうのは、本当に主観的で、
自分自身が何を根拠にせずとも
‘私は○○だ’ということに決めたら、それまでなんだよね。

だから、どうやって’なる’の?ってことではなく、
達人方が言われるとおり、’決めるだけ’みたいな、そんな簡単なことってなっちゃう。

でも、
あらゆる自分の認識って、
全部自分がそうだと思ったり、そうじゃないと思ってるだけのこと。

そういう意味で、極めて主観的なんだよね。
簡単すぎて面食らうんだけど、実際そう。
それに伴って、目の前の現象が作られていってる感じ。

これまでの現実から自分の認識を作り上げることをやめて
自分の認識が外を作ってると何度も何度も自分に言い聞かせて見方を変えないと、
現実→外の視点でもってメソッドやらやっても何の意味もない。

メソッドは外を変えるというより、
自分の認識そのものを変えたり、変えた認識を定着させるためのものだよ。

外を変えるというより、自分の認識そのものを変えたり、変えた認識を定着させる : Without the Mind

そうおもえば、そうなる、ってことだ。

そうとしか思えない=認識

そうとしか思えない『叶ってない私』を浄化(?)するためにあるのがクレンジング

そうとしか思えないレベルにまで『叶ってる私』を落とし込む為のアファ等のメソッドがある。

まぁ、早い話、認識を変えるためって言うことなんだけど、

そうとしか思えないって言葉にすると、もっとわかりやすいんじゃないかと思って。

元彼に新しい彼女が出来たように見えても、

自分が彼と復縁してるとしか思えないならそれが正解だし、

鏡に映る姿がブスに見えても、自分は美しいとしか思えないならそれが正解だし、

財布の中が心許なく見えても、自分がお金持ちだとしか思えないならそれが正解。

現実無視ってそういうこと。

現実がどのように見えても、叶ってるとしか思えない。

そうなるといつの間にか世界がそれに合わせて姿を変える。

当然ですよね、現実よりも『そうとしか思えない』内面の方がパワーが強いんですから。

そうなるとしか思えない』というのでも良いんですけど、それだと惜しいんですよね。

そうとしか思えないというのは、既にそうであるという立場に対して

そうなるとしか思えないというのは、これからそうなるという立場なんですよ。

……とはいえ、良い感じではあります。

そうとしか思えないことってなんだろう?

っていう風に自分を見つめ直していくと、

自分がどんな認識を持っているかわかりやすくなる。

そう思えばそうなる……とは?2 | とあるスピ廃人の色々

こまけぇさんがもっとうまく、まとめてくれてる

願望実現とは簡単に言えば認識です。目で見るなり、耳で聴くなり、肌で触ったりして五感を根拠として、ようやく「願望が叶った」と認識に至るわけです、エゴちゃんにとっては。で、五感というものはあくまでも受け身であって、コントロールできないんですよね。現実を見て嬉しいやら悲しいやら、暑いやら寒いやら自動的に湧いてくるものです。

つまり、主体性がないというか、副次的なものであって、その五感自体が真実(真実もクソもないですが)を表してもいないですし、それ自体が何かを作っているわけでもないんです。

つまりその五感の感覚にあれこれ囚われることは虚構の中に生きていると同じなんですね。厳密に言えば、その虚構を真実として、世界を作っているんです、心(認識)が。よって、仮に願望が叶ったとしても、突き詰めればそれも虚構なんですね。ただ、どの虚構を選ぶ(認識する)かというだけの話なんです。

つまり従来の虚構の霧を振り払うためには(好きな虚構を選択するためには)、心(認識)の独立性を保つためには、五感の感覚を切り離すことが重要です。ただ、間違えても抑えるんじゃないですよ。「クソ、現実を見て不足を感じてしまった、ダメだ」なんてするんじゃなく、やっぱりいつものアレです。気付く(許す)ことです。その感覚を他人のものとして気付くことで、徐々に切り離していく。

そうするといつかお話ししたように、現実の景色の世界と、自分の内面の世界が分離しているような感覚になります。分離しちゃいけないんじゃないかとツッコまれそうですが、そうではなく、現実の景色が自分という内面の中にあるジオラマ(街)となり、それを俯瞰しているような感覚です。それを2つの世界と表現しているだけです。

その街には私を含め、人々が生活をしているのですが、自分(認識)は雲の上にいるような立ち位置で、その街さえも自分の中に内包されているような感覚なんです。私が主で、街が従です。ですから、その街でどんな出来事が起きても、私は雲の上にいるんでのめり込むこともなく、心が干渉されないんです。で、意図したことが不思議と街に伝わって、その意図の通りに街が振る舞ってくれるというだけです。伝わると言うか、感覚的に言えば、瞬間的に「意図=街そのもの」って感じです。

どの虚構を選択するか|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!

すごい今、こまけえさんのブログを1から読み返したい気分。

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