世界の中心に灯る、あたたかな光

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停滞期

なんだかんだここんとこ書いてきたけど、要はここ1,2カ月ぐらい、ある特定の願望に対する「やる気」がなくなってきていたのが原因だと気づいた。

「叶ってもかなわなくてもどっちでもいい」が、4:6・・・、いや正直言うと、あきらめというか、「どうせこれは叶わないんでしょ」みたいな、あきらめもふつふつと。

いまだに他のことはするっと叶ったりするだけに、それだけが不思議で。

再度、認識の変更

で、ふとその直近の「願望」を、その対象を、別のものに変えてみた。元々「願望」だと思っていたことは、どうしても「現実」という手垢塗れになって、純粋にそれを望む、ということができなくなっていたから。

そしたら、「ぶわわああ~」としあわせな感じが溢れてきて、それに浸っているうちに、「あ~、やっぱ、去年の12月に経験したやつが、自分にとっての認識の変更じゃん」って思った。

その直後、普段だったら発狂するようなネガティブなことも起こったんだけど、たんたんとやり過ごせてしまった自分もいる!

俺の認識変更!

認識の変更っても、言葉にしちゃうと、そんな大したことはなくて

「自分はエゴではない」という意味での、認識の変更。

「本願」を達成したときに感じているであろう気持ちの先取り

「本願が叶えば感じられると思っている感覚」

になれること

ただ「やった~」って高揚感ではなく、たんたんと、満たされた感じ。
「叶った瞬間」というよりも、叶ったことが日常化したときの内面の状態、というべきか

穏やかとか安心感とか、そっちだよね。

認識の変更って、個人個人の感覚でしかありえない。

だから、同じ状態だとは思うけど、人によって表現する言葉が違う

「胸の中心あたりにある、ぽかぽかした感覚を感じる」

実践も、内容もシンプルだしね。

揺り戻し

ことばにするとそうなんだけど、「その感覚」こそが自分の本体で、エゴと別の領域なのがはっきりわかる

あくまで感覚だけの話で、説明は後付けなのに、その説明を頭の中でこねくり回して、複雑にしていただけ。

どんどん、本質から離れていってしまってた。

このブログでも何度も何度も書いてるけど、「認識変更した」って確信しても、絶対また戻る。

なんだろうな、結局「自分の感覚を信じられていない」というのがあったかもしれないな。

以下、自戒を込めて、この半年ぐらいの自分を戒めてみる。

「現象化」を追うな

いまだからこそ言える笑

いや、でもそんなことないか、去年まではとにかく恋愛面を「現象化」させるのに必死で、その結果、認識の変更を経験できたので。

ただ、一度認識が変更出来た後で、また「現象化」を追うと、戻ってしまう。

振り返ると、現象化が大きかったのは、やっぱり認識変更後の2か月ぐらいだったと思うし、そこからは、どうしても(うまくいっているからこそ)、「現実」の比重が高くなってきてた。そして、少しずつ少しずつ、認識変更の感覚が薄れ、現象化の内容としては下がってきていたと思う。

だから、また新たな知識を求めて旅に出て、もともともっていた感覚がさらに薄くなる・・・だから現象化もまた減って、また自分の願望実現に対する姿勢を疑い始めたり、メソッドを探し求めたり、斜めの探求がはじまっていた。

「表現」を追うな

この「あたたかな」の感覚は、直接的に何か願望を実現させてくれているというよりも、「ハートが現象化を許可をしている」みたいな感じなんだけど、

108さんのいう「既にある」や、桑田さんのいう「源泉」、自己観察さんの「別の領域に浸る」、イウォーク師匠の「カンペキング」であるし

「自分=世界」というと、どうしても「意識」の話に感じてしまったけれど、「世界を映し出している源泉が自分の中にある」、という意味では、これも「自分=世界」

あ~だこ~だと書いてきたことは、結局全部つながるんだけど、その自分の感覚をつかむ前に、達人だろうがなんだろうが「他人」の表現を気にしてしまうと、どうしても、自分の感覚と違うことを意識することになってしまう。そして、自分のもっていた感覚からずれる。

逆にいうと、自分の感じている感覚を表現しようとおもうと、どうしてもポエムチックにはなってくる。

「叶える」を追うな

叶えたいという気持ちが強ければ強いほど、「叶っていない」という認識がくっついているので、「叶っている」って表現は、エゴが寄生しやすいな

もちろん「叶わなくていい」とも思わないけど、認識変更してる状態としては、「いま」完璧に幸せだから、「いま」以外の現象化とかどうでもいい、みたいな感じ
どうでもよくはないか、忘れてる、って感じ
「いま」満たされているから、満たされていること以外を考えないというか。

自愛とか

自愛で、「どんな自分でもOKを出す」のではなくて、どんな自分でもOKを出せる立ち位置にいるというか、その対象となっている「自分」自体が、自分ではないので、どっちでもよくなるというか。

「不安なネガティブな感情に苦しんでいる自分」自体が、認識変更後の自分ではないので、同化できなくなる

自分自身が、充足そのもの、愛そのもの、として存在してる

私自身が、私が求めていたもの、この記事そのまま。

エゴとか、意識とか

そういう感覚になる前に、「エゴが反応しても、安心していてください」とか、無理だと思うんだよね

「エゴの声に耳を貸さない」ようにすること自体が、エゴの反応なので、いつまでたっても、エゴのループから離れられない

いまは、エゴを敵対視するわけでもないし、無視しているわけでもない。「充足」という絶対的なアンカーがあるから、落ち着いている感じ。だれかの表現にあったかな、家族としてのペット、みたいな感覚かな。

で、エゴからは距離を置けているけど、かといって、「無」を追いかけていた時とも違う。

意識だけ感じにいくと、たしかに「無」になりやすいけど、それは自分にとっては罠だった。

これも数えきれないほど書いてきたけど、自分は意識系の方向にもっていこうとすると、2,3日程度で、「つまんない」って、エゴが暴走する。ため込んでいたかのように、不足をバンバン作り出しにいく

エゴ → 意識(本当の自分)

を目指さなければ、、という感じだったのが、

「充足」という本当の自分が現れて、「意識が「自分の本質」を見つめているって感じなのかな。

だから、エゴ自体も安心してる

にごり

あと、一部の願望実現系には「いい気分でいなくていい」みたいなところもあるけど、まぁこの感覚は、いい気分とはまた少し違うところはあるけど、やはり強烈なネガティブな感情が沸き起こると、その「源泉」がエゴによって、汚染される感じがある。

「ぽかぽかとあたたかい感覚」に浸っていれば、「現実はどうでもいいと思えるほど満たされる」んだけど、いつもそこにはあるんだけど、どうしても見えなくなることもある。

だけど、画家さんのいう「鉄券」みたいなもので、絶対に渡してはいけないもの

条件付けだろうがなんだろうが、これが俺の認識変更だからいいんじゃ!みたいな勢いでいきたい

まとめ

ただただ、日常が心地よく、スムーズに流れていく中で、「あ、これほしかった」ってことが、勝手に叶っていく。

日々のわずらわしいネガティブから解放されたい、というのが一番大きかったかもしれないので、それだけでも十分なんだけど。

今後は、実現報告をしたかったり。

今日は、彼女に最高のクリスマスプレゼントを用意することができて、大満足してたら、予定外でご飯にいけることにもなって、ナイスタイミング

コメント

  1. ペコ より:

    前に108さんが認識の変更は五感で捉えられないもの、それを思考で追いかけるなと仰ってましたが、今回の投稿を拝読し更に腑に落ちました。

    いつも自分の中にある絶対安全な場所、いつでも戻ってこれる、戻るというより実は離れる事は出来ない場所、実は自分自身がそれであったと思い出しては愛に戻る。
    私にはそんな感覚です。

    • tonpei より:

      >ぺこさん
       こちらにもありがとうございます。
      ちょっとトラブル中でして、自分自身の書いた記事のこともすっかりおろそかになっていました笑
      感覚があるうちに、記事を書いておいてよかったなぁと思います。

      「戻るというよりは実は離れることができない」、まさに!な、表現ですね。

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