愛してくれてありがとう

なぜ「愛されたい」と思わない?

カンペキング認定をし続ける中で、単純に「愛されている」認識がないだけじゃないの?と思えてきた。愛に浸るメソッドが、ある意味自分の一方通行で満足してたんだけど、ふつうに考えたら、「愛されたい」よね。

そんなふうに思って、一番思い浮かんだのが、「”母に愛されていた”と思いたくなかった?」ってことかな。いつの頃からか「自分は母に愛されなかった」って決めつけて、恨みつらみのようにずーっと握りしめて「自分は愛される存在ではない」と決めつけている。

自分自身が、「過去にああいった、こういった」にしばられていて、それを相手に投影していた、というのもある。

そんなこともあって、恋愛系の記事をまとめたく。

結ばれたい異性からの愛

私の転機は、ある日、そもそもあまり好きではない自分から
愛してると言われても、なかなか素直に聞けるものではないと思ったことだ。

そして、愛するというのはもっと客観的なものではないかと思った。
相手が何をしていても愛おしい…ということは、
相手を認めて近くで見守ることに近いと。

だから、別人として自分を愛してみようと、
最初は鏡を見て自分に愛してると言ってみた。

その時、少しでも素直に聞いてもらうため、
鏡の中にいる人間に話しかけている当の自分は、
結ばれたい異性の外観をしていることにした。

そして「愛してるよ私」とかでなく、
結ばれたい異性から普段呼ばれている愛称で、
「〇〇さんの事が全部好きです」と言ってみた。

すると自分からの嫌悪感がふっとゆるんだので続けてみたんだ。

次第に、好きな異性の形を借りなくとも、
自分の体から一歩抜け出た場所から、自分に大好きだと言うイメージがついた。

そこから、色々な事が感覚として繋がった。
全ては愛だということも理解できた。

そして、ある日「この世界は私の認識によって出現している」と
当たり前のように実感できた。

「うまくいかない」ということなど、そもそも起こりえない。全ては自分の認識なんだ。 | ザ・チケット板☆備忘録

「愛されてもいいよ」自愛

例えばですが、今まで私は「別れた彼から連絡が欲しい、どうしても欲しい」と願っているとき、
すべきアファは「彼から連絡が来る私になってもいい」だと思っていました。

今は違います。
「彼に愛されたいな、そう願ってもいい?」→「もちろん、いいよ」
です。おそらくその瞬間に私の願いは許可されている・・・という感じ。

「愛されていると実感するような現象化までのタイムロスはどう捉えるんだ」
と、今までの私なら思ったのでしょうけど、何分願いはそのままに執着が無くなってしまったので、
そんな嵐が心に起きない・・・説明しずらいのですけど「それでいい」とすら思ってしまっている。
だって掘り下げていけば私の願いは「安心したい、幸せを感じたい」だったわけなので。

ただ現実は動いてくれるもんで、ちょっといいなと思った事のある男性数人から
同時多発的に連絡が来たり、ずっと連絡がなかった元彼からなぜか連絡が来たりしていますが、
それでも私の心にはあまり波が起きませんw
前は浮かれていたでしょうし、再度失う恐怖にも苛まれていたと思います。

でも今は、次を期待してもいいし、以外と喜びがないなと思ってもいい、
思い切り喜んでもいい、私は自由なんですね。

叶えるための行動をしない!と、逆に不自由になった自分を優しく許す「いいよ」 | ザ・チケット板☆備忘録

コメント

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