「生きるのって、こんなに楽だったんだ」
コメントをやりとりさせてもらっているうちに、ふと、そんな感覚になりました。
こまけぇさんが自愛の記事で書いてた重い具足を手放せた、って感じでもある
「突き抜けられそう」な時に感じてたこと
内面のみに集中
スクリーンに気を使う必要はない
幸せは感じられていた。
「あいつ嫌い」が、現象化してる
「この会社おかしい」が、現象化してる
不足がわいてきたら、「それを採用しない」
・・・そういうことじゃないんだよな。
苦しみの根源「分離感」
「エゴと一体化していても大丈夫」って感覚がわからなかったんだけど、「えー、エゴと一体化してたら不足が現象化するじゃん」と思っていたんだけど、自分がずっと苦しんでいたのは、エゴや思考との一体化ではなく、「分離感」なのだ、と、今回わかった
あったかいおうちにいれば、最高の食事がすべて用意してもらえるのに、あえて、吹雪の中、猟銃を抱えて、「あの獲物を仕留めるまでは、食事はできない!」と、空腹で出かけていく
おうちにいれば、もともと安心なのに、わざわざ家の外に敵を作って、「そいつを、ぶっ殺すまで安心しないぞ!」って、また家出する。自分の場合、こっちのほうが、強めだったかな。
どちらにしても、この「家出」こそが、「不足」を求めて旅に出る分離感そのもので、そもそも不足を求めているんだから、愛は見事に、「不足」を届けてくれる。
愛のおうちにひきこもっていれば、なんにもする必要がなく、全て揃っているのに。
わざわざ、わざわざ、自分で、苦しみにいっている。積極的に。
しかも、そもそも、「家出している」こと自体が、幻想。
この「分離感」のロジックに気づけて、「あ、いま分離しそう」っていう客観視ができるようになったのが、また余計な「荷物」を背負おうとする瞬間に気づけるようになったのが、
「自分自身が愛や幸せそのもの」という「認識の変更」を、わざわざ取り消しにいっている「分離感」に気づけたのが、「生きるのが楽」って感覚。
もう、ずっと、愛と幸せのおうちにひきこもることにします。
愛や幸せを感じるのに、言葉はいらない
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