前回の記事で、だいぶ落ち着いた感があり
何も考えなくていい
別の領域にまかせていればいい
全部の分野、オールオッケーになる
なんてことを考えて、日向ぼっこモードだったんだけど、
昨日あたりから、エゴ的にいろいろなタイミングが重なり、ばばーっと新しいことが動き出した感じ。
いや、「動かされた」というべきか・・・
過去記事振り返り
過去記事整理してて読み直して、ちょっと久々に天寿さんの引用。
うん、べつに認識の変更とか関係なく、しあわせになればいいんだよね。
引き寄せの循環システム・感情が現実になり心に還る | 天寿のハッピーパーソナリティ~吐き出しの法則で人生を明るく楽しく暮らしちゃおう~
自分のいる現実世界は
自分の「〇〇感」で成り立ってるんです。
自分の現実の全ては
自分のあらゆる「〇〇感」で出来てる
つまり
自分は自分の気持ちの中で生きている
「なる」とか「ある」とか
日向ぼっこしてても認識が違ったら叶わない。そんなことを思い出した、こまけぇさんの初期記事
自分であるという根拠に実体がないにも関わらず自分であると認識できるのであれば、根拠を求めることなくどんな自分にでも設定できるのではないか、というものです。つまり、ニストにもサンタにもなれちゃいますし(イブなので時事ネタを)、願いが叶った自分にもなれちゃうというわけです。
これはすぴりちゅある業界ではわりと馴染みのあるやり方で、「直結」とか「なる」とかそういった呼称のされ方をしています。自分が求めている姿に内面でなってしまえば、その瞬間から外界もそのように一変するというものです。パラレルシフト的なイメージですかね。
結論から申しますと、この理論はガチなんですね。これが全てと言っても差し支えないです。
「えー、そうなんだ! 今、私の願いが叶ったんだ! うれしい! みんなー聞いて! 私、願いが叶ったよ! 芦田愛菜だよ!」と、素直に受け入れられる人は違う意味で既にハッピーな人でしょう。むしろ自分の信じる道を大いに突き進んでいって欲しいところです。そのようなごく少数の人たちを除いて、ダイレクトにこのやり方で願望を叶えちゃう人というのはあまり多くはないと思います。
なぜなら「なる」はシンプルだからです。なって(叶って)しまえば何もすることがないのです。人は大半の時間において自分(エゴ)になっています。しかし、なっている自覚なんてないですし、自覚がないわけですから、自分が自分であるという証拠も探さないわけです。(映画「ボーン・アイデンティティー」を地で行くような、自分が誰であるのか血眼になって証拠を探している方がいらっしゃいましたら、すみません)。この境地が「なる」なのです。しかし多くの人がなった後で、その証拠を外界に求めます。証拠を探すという立ち位置は元の「なっていない」自分です。つまり、皮肉にも渇望していたはずの「なっている(叶っている)」という状態は激しくエゴを揺さぶってくるのです。その揺さぶりにほとんどの人が「なる」を解除してしまうのです。シンプルゆえに難解なのです。
こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ! 「なる」はガチ?!
あと、こまけえさんの旧掲示板でみかけたコメントとか、まさにその通り。
認識変更ってそんな難しくもなければ長ったらしい話しでもないですよね?
掲示板④ – こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!/#comment-15193
前提をあるにするだけ
そうやって世界を見ていけば自ずと見えてくるはずなんだけど。
自分がどう見るか?
どう認識、設定していたか
現実見れば丸わかり
〇職さんのブログに答えが沢山載ってるのになー。
まぁ、でもこういうことだとおもってます
と、いくつも考え方はあるけれど、サロメさんのついこの間の記事で、やっぱりこれが、しっくりくるなぁ。
五感もエゴの領域です。
エゴで「叶っていると判断する」or「叶っていないと判断しない」でください
と、いつも書いていますが、ここでいう「エゴの判断」は「思考による判断」だけでなく、
「五感による判断」も含まれています。つまり、
「見えないから叶っていないと判断しない」でください
いうことです。
見えないから叶っていない
↓
叶っているから見える
とひっくり返せばいいのです。
ただ、三次元+時間の世界に生きている以上、「叶っていない」から「叶っている」と判断を変えた瞬間に五感で知覚できるわけではないのは今までに何度も書いている通りです。
でも「叶っている」のですから、然るべきときに見えてきます。
「思考」「五感」ときたら、次は「感情による判断」の説明です。
多くの人は「不快・不安だから叶わない」「快・安心だから叶う」と思っていますが、
叶っているから快・安心なのです。
ちなみに「叶っていないから不快・不安」なのは当然といえば当然です。「叶っている」のが前提なのに、わざわざそれに背いているのですから。
「快・安心だから叶う」は、必ずしもそうではありません。
それを確信していれば叶いますが、一方、どんなに快・安心を心がけていても叶わないと嘆く人もいるでしょう。なぜなら、根本で「叶っていない」と判断しているからです。
「叶っている」のですから不快・不安を感じるときがあってもいいのです。でも、それで「叶っていない」「叶わない」と判断してしまわないよう注意が必要です。
どうせならいつも快・安心を感じているほうがいいのは言わずもがな、です。
いつも快・安心であればものの考え方や行動も変わってくるので、単純に毎日を快適に楽しく過ごせる効果があります。
まとめますと、
叶っているから見えてくるし、叶っているから快適で安心していられるのです。
叶っているから見え、叶っているから快・安心 – すべての願望はすでに実現しています
これね
ほんとにずいぶん前に書いた記事なのに、それだけの気づきがあっても、あらためて腑に落ちたのは、ぐるぐるぐるぐる回り道をした後という、ね。
サイトリニューアル中
日向ぼっこが急にアクティブに流れの中で、サイトもリニューアルしました・・というか、まだ最中なんですけど。ついでにドメインもとってみました。これまで通り見れるとは思いますけど、不具合はちょこちょこ直していきます。
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