これで終わりにしようぜ!

エゴって何なの?

少なくとも、ここ最近の自分のニュアンスは、「エゴ」=「ネガティブな思考・感情」的になっていたんだけど、今更ながら考えると自分の過去記事も含めて、「エゴ」=「すべての思考・感情」=「個人としての意識」ということだよな。

「普段」の、特にネガティブでもないと思っている自分でも、いろんな思考をさも自分自身が考えたかのように垂れ流し、後々の「ネガティブのタネ」を植えまくっていることに気づいた。例えば、嬉しい経験なんかも、握りしめてしまうからこそ、後のネガティブの反動が強くなってしまう。

だから、「もう、なんかしゃべったら、エゴ」みたいな。そして、エゴに「自由意志はない」。

エゴがギブアップ

昨日は、なんかもういろいろ疲れ切ってしまい、エゴがオーバーヒート。ギブアップして、勝手に止まってしまった感じ。エゴが自分で毒物を生成して、自分で苦しんでいる感じなんだけど。

んでもって、自分のブログで「疲れた」を検索して、出てくる過去記事を読み返してると、確かにすげーわかる。

振り返ると、連休入ってからの記事は「エゴ視点」からのコントロールの記事ばっかりだったな。なんかな~、もう素材はそろっているんだけど、参考記事を見つけてきては、どんどん混乱しているだけな気がしている。。。

「わたし」をやめる

なんなんだろうな、この悲しみみたいのは・・・
ネガティブな感情がめちゃくちゃ強いので、とにかく気分が落ちるときは、ガックンと落ちる。しかも落ちると、抜けたくなくなる。悲しみから抜けたくなくなる。

自分を傷つけてる。傷つけられている自分を選んでいるのはわかっていても、このままいたくなる

だから、「不足」を異様に毛嫌いしていて、とにかく「幸せ」と「安心」を「渇望」している。

だから、不安や不足を感じないように「自愛」や「自己観察」でコントロールしようとしている。

幸せや充足を感じるように「メソッド」や「イメージング」でコントロールしている。

で、自分が「コントロール」した結果に対して、あれこれ批評してる。うまくいかなかった原因を探してる。自分を責めてる。

そういう自分に、疲れた。

「コントロールしている」という感覚自体が、エゴなんだろうし。

そもそも、「自由意志がない」という話を別にしても、ふだんから、バリバリ思考中心で生きていて、ただでさえコントロールのやっかいなネガティブ感情を伴う思考が湧き出してきたときに、コントロールなんてできるわけがないよな。

すべてが嘘まみれのエゴ

一方で、「わたしをやめる」=エゴから離れることで、「ない世界」=「エゴの世界」から離れられる。「ない世界」でどんだけ考えても、何を感じても無駄だし、意味がない。

いろいろ整理してて、ささったのは、やっぱりこまけぇさんの記事だった。読者さん報告だけど。

簡単に言うと、いくつかの記事を読んでいくうちに、

自分の認識も思考も感情も全てが勝手に出てくる虚構だと気付き、

ならば自分は初めから何も悩んでいなければ、悩みの原因すらも存在しない、、、

もうこれ以上なんとかしようとする必要が全くないことに気が付きました。

~~

基本的に心の声ってのは真実を示さないフェイクニュースですが、そのフェイクニュースに惑わされているのが普段の我々です。情報に対するリテラシーが叫ばれている昨今、スピリチュアルでは遥か古来(?)より内なる声へのリテラシーを高めることが肝要だとされています。

なぜ心の声がフェイクニュースなのか? 答えは単純です。そのニュースの素材そのものが「私(エゴ=個人)」という虚構だからです。世間にはさまざまなフェイクニュースが流れていますが、我々にとっての最大の虚構は個人という意識なんです。そこを看破すれば勝手に真実の世界が現れてきます。

読者様からの嬉しいご報告】 ~思考は虚構と気付き廃人卒業~|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!

自分の記事だと、やっぱり、「現実は嘘」が一番しっくりくるし、もうこれ1本でいいような気がしてきた。思考による「ない」がなければ、「既にある」わけだしね。

自己観察さんの記事も載せとこ。昔から自分のメモにはよく残しておいた内容だけど、ブログに引用するのは初めてだ。

目の前の現象に対して「どうしたらいいんだろう」「いつになったら、どうやったら手に入るんだ!」
とか、いろんな思考や感情が起きてくると思いますが、それらは全部、目の前の現象に対しての反応や
感想であって、自分の内側から湧き出てきたものではありません。
自分の内側にはそんなものないからです。

なので
「ああ、これは外側に反応してるだけなんだな。充足である私にはこんな不安は必要ないや。」
と気づくだけです。

決定権は現実(幻想)のほうではなく、自分のほうにあるということです。
リアルは内側です。つまり気づいてる視点のほうが真実。

なので「別の領域に浸る」ことは気休めとか、ただ安心できるだけの場所ではなくて
「別の領域」に浸ってることそれ自体が本当の「今」であり、
これからの現実を作るすべての源です。だから実現の領域なのです。

私たちは本当は一瞬たりとも「別の領域」を離れていません。
ただ外側に反応して起きてくる思考に邪魔されてそれに気づいていないだけです。
だったら今この瞬間、別の領域にいることを思い出せばいいだけなのだから、
とりあえず浸ってみることからはじめたらいいんじゃないかな、ということです。

自己観察式 15 「別の領域」に浸ってることそれ自体が本当の「今」 | ザ・チケット板☆備忘録

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