気が付けば一か月近くの久々の投稿になってしまいました。
出やすい不足感
潜在意識界隈では、「何もかもうまく行きません」というよりは、恋愛面はうまくいくんだけど、金銭面がイマイチとか、健康面だけが不安とか、家族のことだけが心配とか、まぁそんな人も多いのではないかと思っているんだけど
いや、とにかく「これ」だけは叶えたい!、かな。
やっぱりそれは、なんらかの「トラウマ」的なところがひっかかって、他のジャンル以上に、その願望に対して、「不足を向きやすい」ということなのかな、と。
自分が過去効果があったと思っている心理学もそうだけど、ヒーリング系のスピリチュアルによる「癒し」のアプローチ。その「過去の傷を癒す」というのが、エゴを切り離し、これ以上不足に目を向けるのをやめることに効果があるのであれば、アプローチとしては間違っていない気がする。「インナーチャイルド」や「被害者意識」の理屈も、納得できるものがある。
元々、叶っている、ほおっておけば叶うことに対して、あえて不足を見に行っている自分の内面(エゴ)、それに気づく、抵抗を外していく、という感じ
特定の相手との恋愛願望が難しいといわれるのも「可愛さ余って憎さ百倍」的なところなのかな、と。
こまけえさんのコメント欄のやりとり
こまけぇさんの【読者のお悩み相談室】~「現実からの挑戦」ってあるの?~の記事に書かれていた、こまけえさんとナオコさんのやりとりがよかった
スピ廃人です。よく言う「お試し」のことですよね。
https://komakeekoto.com/chousenjou/#comment-407
私はもう何年も、現実無視ができず止まっています。
不足をみるから、それがエンドレスループが続いています。
広瀬すずの記事もありましたが、私は汚肌で30年くらい悩んでいます。。
肌がきれいな人には分からないと思いますが、毎日ずっと灰色で何をしてても頭から
離れることがありません。なので、余計引き寄せるとは分かっているけど。。
肌もきれいになりますか?
ナオコさん、はじめまして。
https://komakeekoto.com/chousenjou/#comment-412
確かに肉体は常に自分に付きまとうので、なかなか無視しづらい側面はあります。
ピンポイントでお肌をどうにかしようとすると逆に不足に焦点がいきますので、とりあえずお肌と自分の価値を関連付けないことです。
結局のところ、お肌から綺麗になって自信の持てる自分になりたい(自分を好きになりたい)わけですから、難しいかも知れませんが、先に自信の持てる自分になっちゃうんです。
それでもお肌がきれいじゃないという思考は湧いてくるかと思いますが、その思考に囚われても、そのことが自分の理想の在り方に何ら影響を及ぼすものではないと意識づけることです(つまり自愛です)。
自分の望む在り方でいれば、体を含めた世界はうまく辻褄を合わせてくれます。
こまけえさん、お返事ありがとうございます!
https://komakeekoto.com/chousenjou/#comment-419
とても丁寧にアドバイスくださって、嬉しいです。
そうなんです。どうしても不足に目が行きがちで、
「現実からの挑戦」のニアリーイコールだと私は思っているんですが、
「お試し」が来るんです。肌のこと、気にせんとこ、と思ったら
肌で絶望するくらいのトラブルが起こるなど。
分かっていても、分かっているつもりでも不足に目が行く、という。
現実が辻褄を合わせてくれる、って素敵な言葉ですね。
この言葉が書いてあった以前の記事も好きでした。
「不足に目が行く、というのが分かるまで何年もかかりました。」
これですよね、これ。巷で言われまくっていることなのに、私もこれに気付くのに数年以上かかりましたよw
たぶん、ナオコさんよりは私の方が気付くのにかなり時間を要したと思われますので、自信を持ってください。「不足に目が行く、できる気がしない」自分を呆れるほど許してください。そんな自分をかわいいかわいいしてあげてください。
始めは抵抗があるでしょうから、他人の私が先に断言しておきます。「お肌きれいになって、好きな服、水着が着たいです。」
https://komakeekoto.com/chousenjou/#comment-424
こんな言葉を素直に口にできるあなたは非常に女性的でかわいいです。
いや、ほんと、初期記事はコメントに対してこまけぇさんの直の返信があって、リアリティがあって、とても参考になります。
結局自愛が必要だ
「認識の変更」「別の領域」がわかった!、となっても、続かないというか、元に戻ってしまう。これはたぶん、人間である以上、根本的に、危機管理的に「不足をみる」ようにできていると思うので、「認識の変更」に過剰な期待感があると、せっかく「わかった」となっても、その後一回不足に落ち込んだときに、その落差にけっこうやられちゃうのかも。
認識の変更「後」の日常を
なんか先週末ぐらいから、「思ったように予定がすすまない」っていうことが続いていて、なんだかなぁと思ってたんだけど。
不足を向いていて、その不足が現象化したとしても、なんというか、車の運転中に目的地じゃなく、電柱に当たらないように電柱ばっかり見ていたら電柱にぶつかってしまったようなもので、「あ、気をつけよ」程度のゆるい感じでいいのかもしれない。
で、あんまりしつこく「不足感」をあおってくるようなエゴがいるとしたら、予想外に不愉快な現実が続くときがあれば、それは「自愛」系のアプローチのタイミングなのかも。
一言でいえば、エゴが、
わかってほしい
というところなんだと思うんだけどね
より「別の領域」的な観点になると
ついでに書いておくと、この1か月のうちに、また感覚が深くなったこともあって、
「観ているものは、いつでも今にいる」
「意識と実像の一致」
「ハートからみている感覚だな」
なんてことを思ってた。特にこれまで、「意識」と「実像」は別だと思っていたのが、なんか同じ感覚なんだなぁと感じられたのが、これまでと違ったところかな。
自己観察さんでいえばこのコメント
今までのあなたの人生がどんなに酷いものだったとしても、
別の領域、本当の自分には苦しみや痛みは存在しません。
それをこの世界で実現していきましょう。さて、意識について信用できないということですが、これは信用できるできないとか、
信用する必要があるとかそういうことではなく、単に焦点の問題だと思います。その大いなる意識は、眠ってるときも、死んでからも消えることはありません。
(死んだことないですけどw)それは生死や時空、個人を超えて存在する根源なのです。
眠っているときになくなるのは「ある」「ない」を認識してる個人の意識のほうです。個人の意識というのは「私は○○という人間だ」とか
「容姿はこんなんで、性格はこうで、こういう症状を抱えていて」と、
普段改めて考えることはないでしょうが、それらのことを認識してる意識のことです。このエゴの世界で生きるということは、時間や肉体という制限に支配されているので、
「私」という制限された個人意識は肉体とともに眠ってしまいます。
そうなると、大いなる意識が存在することを認識することができませんよね。で、今回あなたが感じた「背景らしき意識」というのは、もっと根源的な意識のことです。
絵画という美しい比喩を拝借して説明すると、あなたは今まで絵の対象物=自分でした。
そこに気に入らない絵が描かれていることを嘆き、どうにか書き換えようと頑張ってきたと思います。でも一部を書き換えようとしても、ほかとのバランスが取れなかったり余計に酷くなったりして、
なかなかうまいこと書き換えることは難しかったと思います。
それはあなたが絵の対象物になりきっていて、全体の構図を見ることができない
位置にしかいなかったせいです。そしてあなたはふと、後ろのほうに背景らしきものを見つけました。
対象物にとって背景とは何でしょう。
すべてを支えてくれる土台、それが「在る」からこそ絵として存在することができます。
そもそも背景となるものが存在しなければ、私だと思っていたものも世界も
すべて存在することはできません。この背景が、原初の「在る」です。自分自身だと思っていた、絵の具で描かれた色彩を消し去ってしまえば、
そこは何も描かれていない、まっさらな状態になります。
これが空であり、無であり、ゼロポイントであり、そして「私は『在る』」です。背景のみのキャンバス「何も無い状態」が在る。それが自分であった、という気づきです。
「無」でありながら「すべてがある」という矛盾が同時に存在する根源です。絶対的に「在る」上で、無である。
「在る」が在るからすべての可能性が存在できる。
絶対的な「無い」というのは存在できないのです。根源からの視点で見ると、自分が存在することさえ気づいていなかった意識が、
突然「あ、自分在るじゃん!」と気づけた原初の気づきです。その意識が「自分が在るじゃん」と自覚したからこそ、そこから思いを発し、現象化するという
「現実を創造する」という感覚が生じたのです。すべてはそこから起きています。自分が無、ゼロだと悟ると、そこに何が描かれようが自由でいられます。
不安や苦しみが描かれていても、あなた自身はその描かれた絵ではなく背景そのものですから、
対象物から離れて「在る」意識(背景)であれば、そこは「すべてがある」場所ですから、
そこに調和して「在る」ことで、おのずと調和した現象が生じます。描かれている対象物は毎瞬変わっていきます。楽しいときもあれば不愉快なときもある。
自己観察式53 不動の意識そのもので在ること。そこが全ての創造の源です | ザ・チケット板☆備忘録
そのすべてを受け入れる場所に在るからこそ、その対象物を変えられる力があるのです。
不足を向くのはNGだけど、不足を受け入れるのはOKという。
まとめ
結局「焦点」の問題、なんだろうな
不足には不思議な引力みたいなものがあって、ついつい気にかけちゃうんだけど、不足にかまけてると、実は叶ってる日々の充足に気づきにくかったりする。
朝の忙しい時に目の前の駐車場に停められたり、ネットでどこも売り切れになっていた商品が、あっさり近くで手に入ったり、今日も、さりげなく充足はやってきてた。
いろいろ振り返る、いい機会になりました。
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