好きな映画を選べる観客

こまけえさんのこの記事

今回、2か月以上ぶりに、記事をまとめるきっかけになったこまけぇさんの記事が、これ。

皆さんはこの業界におけるパワーワード「別の領域」という言葉をご存知かと思われますが、実際に自己観察などを実践する中でその「別の領域」に意識をシフトすることができたと自覚がある方の割合はどれくらいなんでしょうか? おそらくは3~4割くらいかと勝手に想像していますが、ただ私の勝手な推測ですと実践を重ねられた方のほとんどは「別の領域」に達したことがあるはずです。まあ達するというほど大袈裟なものではなく、咽び泣くような劇的な感覚でもないために自覚がないだけで、一度は必ず「別の領域」に足を踏み入れていると思われます。

と言いますか自己観察をした際の意識のポジションがまさにそれなのですが、それだとイマイチ体感が薄いようなので激しい怒りやひどい悲しみなど感情があらぶってしまった時に一呼吸おいて客観的にその感情を俯瞰してみてください。心がフッと軽くなる感覚があるかと思われます。それです。それが「別の領域」と呼ばれるヤツです。

さらに言えば感情だけでなく、その感情と一緒に天井くらいの視点から(想像で)自分という人間(物体)を見下ろしてみると別の領域の感覚が実感しやすくなるかと個人的には思います。自分という人間を第三者の立場から客観的に眺めているような感じです。まさに前々回の記事で言及したゲームの中のキャラ(エゴ)をテレビ画面から覗くような。

始めは就寝前や風呂中の5~10分間を使ってその「別の領域」に浸る練習をしながら、ある程度簡単に「別の領域」にアクセスできるようになれば日中の空いた時間などでも行ってみる(実際に全く難しくないです。意識の中の無風な地点があればそこです)。この別の領域に意識が慣れてきますとエゴの思考をニコニコ動画の字幕のように流せるようになり(「現実という名の「ニコニコ動画」)、その字幕(エゴ)のフィルターによって現実認識を洗脳されていたんじゃないかと客観視でき、徐々に内面が世界にそのまま反映されていたことを知識ではなく体感することができるようになります。

「いや、ワイはずっと実践してきたんやが何にも体感はないぞ」と反論したい方もいるかとは思いますが、私の個人的な経験で申し上げますと自己観察系(無思考、今にある)のメソッドって案外1日で1時間もやってないんですよね。まあ1時間もできれば優秀な業界人な気もしますが(私がただ怠けていただけかもしれません)。中には分散でなく1時間くらいまとめて時間を作って自己観察をするだけでイケちゃう人はイケるような気もします。もちろん「今にある」のメソッド(入り口が違うだけで自己観察とほぼ一緒)でも構いません。

コツとしては「別の領域」に浸ることを願望実現の手段として捉えないことです。願望実現をニンジンに実践をすると自己観察中に「これを続けていたら『既にある』が理解できるんだ…まだか、まだか?」なんて邪念が湧いて来てエゴの立ち位置に直帰することは確実なので、とにかくその心が落ち着く意識の立ち位置に浸ってみる。とりあえず騙されたと思ってただ自己観察自体を目的として実践してみる。引いては趣味にする。すると霞がかっていた視界が徐々に晴れるように「自分=世界」がクリアになって行くかと思われます。

「別の領域」にあることを趣味にする

本質的なところは、黄色で下線をひっぱった「現実認識の洗脳」というところ。

「趣味にする」という表現はたしかにすごい。

ただ、そこから、なんかちょっと感覚が変わってきて・・・たぶん「ニコニコ動画メソッド」の「字幕」って表現から、ふと「観客だよなぁ」って感覚がしてきて、108さんのこのブログを思い出した。

映画の鑑賞者

ということは、どこかに行き、何かを行い、何かを書き、何かを聞き、何かを喋っているあなたは主人公かもしれませんが、それはあなたではありません。
その時何かを感じているあなた、つまり実際に経験しているあなたこそが本当のあなたなのです。

チケットは無数にある

感じている者こそ自分の本当の「主体」だと気づくと、あなたは現実に急きたてられる主人公の役割から解放されます。
現実は拷問ではなくなります。
あなたは投影されている映像の一部ではなく、それを鑑賞している観客の立場に立つことが出来ます。
そして、元々そうだったのです。

逃れられない唯一のストーリーの呪縛から解き放たれます。
現実は、あなたを不自由に閉じ込めておく檻などではなかったことに気づきます。
今までのあなたは、その映画にのめり込み、主人公と一体化していたため、その視点を持つことが出来ずにいました。
しかし、ちょっと用を足しにいった瞬間に、本当の自分に気づいてしまったというわけです。

「私はどうして、見たくもない映画に必死にのめり込んでいたんだろう」

もうこの作品の続きを見る必要はなさそうです。
あなたは映画館を後にします。そして、本当に見たい映画はどんなものか、想いをめぐらせます。

頭の中に、面白そうな映画のストーリーが浮かんできました。あなたは楽しくなって、思わずウフフと笑いがこみ上げてきます。

目を上げると、正にそんな面白そうな映画の看板がそこにありました。

「これだ。これにしよう」

あなたはウキウキしながらその劇場に入っていきました。
なんとなくですが、面白そうな映画であることは直観で分かりました。
それに気に入らなければ、また別の映画を選べば良いだけのことです。
映画など、星の数ほどあるのですから。

次の映画に移る

この現実を、逃れられない唯一の現実だと信じ込んでいると、観客の視点を持つことは不可能です。
その時あなたは、主人公としてそのストーリーと必要以上に密着してしまい、強力にその現実を固定化してしまいます。結果、似たような現象化が延々と繰り返されることになり、変更はますます困難になります。

はっと気が付いて、観客であることを思い出したら、何が起きるのか。

何も起きません。ただ、本来の視点を取り戻すことが出来るようになります。
今までは主人公として現実に感情移入しすぎていたため、極めて近視眼的な視点しか持ち得ませんでした。これはエゴの視点です。
もっとよく見ようと、読んでいる本に極限まで目を近づけても、ますます読みづらくなるだけです。そこで何とかしようと取り組んでも、暗闇で闇雲に動き回っているようなものです。そんなことをしても上手くいくはずがありません。

そこから一歩引いて、主人公である自分を観察する観客の視点を持ってみる。
それは本来のあなたの視点であり、別の領域から正確な観察を行っているということです。

つまり完全に安全な領域から、全てを見通せているということです。

「志村、うしろうしろ!」

主人公に適切な指示を与えることも可能です(笑)。
大局的な視野でもって、全てを見通すことが出来るようになるのです。
思い出してください。別の領域は可能の領域です。そこに不可能という概念は存在しません。
つまり、あなたがその地点から現実を眺めているとき、その現実は如何様にも変更可能だということです。
あなたがその視点を持つだけで、現実は自動的に望むように変化していきます。なぜなら「現実は如何様にも変更可能である」という者としての立場で、現実を捉えるようになるからです。これは主人公としてストーリーに密着しているときには起こり得ない出来事です。

気が付けば、あなたは以前とは全く別の映画の中にいます。いつの間にか映写室のフィルムが掛け変わってしまったようです。
しかし本当は、フィルムを掛け替えたのはあなた自身です。それが出来る立場であることを思い出した「あなた」なら、それは何の造作もない、極めて容易なことなのです。

最後にもう一つ、とても気が楽になるメッセージをお伝えしましょう。
あなたは苦労して望む現実を創造する必要は全くありません。
何故って?それらは既に現実として存在しているからです。あらゆる現実は可能性としてではなく、本当の物質的な現象として、全てあるのです。

あなたはその中からお望みのものを、観客の視点でもって単に選ぶだけでよいのです。

簡単でしょう?(笑)



http://108.houhu.net/archives/123

「願望実現物語」からの卒業

さらにエリックさんの記事も思い出したり。

私からすれば、この”願望実現物語”は、本当に単なる物語であって、体験したくなければ体験しなくてもいいんです。

この物語が自動的にスタートしてしまう根本の原因は、

「私」(個人名)が本当の自分であるという勘違いをしているからです。

「私」(個人名)がこの世界で生き抜かなければならない!!という嘘から始まっているので、その後もその嘘が前提の世界や経験をすることになるのです。

「私」(個人名)というのは実在しているのではなく、この世界を体験するために本当の自分(意識)に創造されたアバターのようなものです。

そのアバターが、世界というステージで必死になっても、アバター自身も世界もすべて幻想なので、幻想からは抜け出せません。幻想から幻想を見抜くことはできないのです。現実的努力では難しいから、スピリチュアルに頼るのかもしれませんが、「私」(個人名)として、スピリチュアル的努力をしたところで、幻想の中で行ったり来たりしているだけなので、大して現実を変えられません。変えられるとしても不断の努力で自分を騙しきることが必要になってっくるのです。

「願望実現物語」はもう十分体験した。これからは”物語”ではなく、”実現そのもの”を体験したい!

そう思われるなら、まず、あなたの本質を受け入れてください。
あなたは一人の人間ではなく、”意識”です。

この意識が、すべてを映し出しています。

あなたの本質である”意識”が、「私」(個人名)」というアバター主演の映画を撮り、同時に鑑賞しているのですから、どんな映画にしたいかを決めてしまえばいいのです。

あなたの本質は、映画を映し出す映写機であり、スクリーンでもあり、「私」(個人名・アバター)の目線で映画を鑑賞している観客でもあるのです。

つまり、自作自演。

普通の人は、「自作」していることも、「自演」していることにも気づいていません。

演じているのではなく、
「私は生きているんだ!!」
「私は一人の人間だ!!!」
と思い込んでいるので、映画を変えることが出来ないし、映画のストーリーに一喜一憂し続けることになるのです。

自分自身のことを、「私」(個人名)と信じることをやめて、”意識”であることを受け入れてみてください。

自分は映画を映し出している「映写機」「スクリーン」「鑑賞者」であることを受け入れてみてください。

あなたは照観者

それが分かれば、”結果として” 自分と他人・世界を分離させることができなくなります。何かを体験したいと思っても、それ自体もあなたそのものなので、”欲しがる”とか”引き寄せようとする”なんてことを思わなくなるのです。

自分=他人、自分=世界、自分=すべて であることを”結果”として理解できます。

アバター(個人名)として、こんなことを言われても意味が分からないのは当然です。分かろうとすること自体が無意味です。努力し、メソッドを実践して理解できるようになるようなものではなく、あなたの意識としての本質に気づいた”結果”こういうことが腑に落ちるのです。

このブログで皆さんと共有したい唯一の情報は、

あなたは”意識” である

これだけなんです。これを理解するのにメソッドや努力は必要ありません。一瞬で可能です。ただ、これまで「私」(個人名)として”生きてきた”時間が長いので、最初はある程度、”気づいている時間を長くする”意思が必要かもしれません。

でも、本来簡単なことです。肩の力を抜いてください。

”意識”として世界を体験できるようになると、「なーんだ、こんなにシンプルなものなのか」という状態になるでしょう。今まで必死になっていたけれど、それはアバターとして世界という舞台で演じていただけだということに気づくでしょう。

願望実現” ”願望実現物語” どちらを選んでも自由です。選べる立場にいることだけは最低限理解しておいた方がいいと思います。

願望実現と願望実現物語(引き寄せ物語) | 「人生設定」 Game of Life

分離感について触れているのもすごい。

まとめ

映画のたとえは、業界入りしてすぐに学ぶ概念だと思うけど、紆余曲折があったうえで、いまやっと、この「映画を選べる」「観客」がしっくりきた。

とにかく、「観客」という表現が、絶妙な距離感なんだと思う。

直前の「迷走」記事で・・・願望実現には「内面」を変えればいいというのはどこでも言われているけど、「実践しなきゃ」「でもなんか疲れててできない」みたいなことも続いていた。

あと「内面」の罠、にハマっていたというか、「内面」だと、どうしても、エゴの「内面」として受け取りがちなので、必然的に「【内面を変えようとする】願望実現物語」になりがち。だからこそ、客観的にみた、映画の「設定」のほうがわかりやすい。同じく、「自分=意識」という言葉では、どうしても「エゴの世界の中の意識」みたいになりがちだった。DEBUGの「主へのリクエスト」は、エゴの世界から距離をおくいい視点だと思った。

「観客」という言葉は、個人としてのエゴだけではなく、完全に、「エゴの世界」の外に出れる。エリックさんの言葉でいえば、「【すること】から解放される」。DEBUGの「主へのリクエスト」も、エゴの世界から距離をおく視点だよね。

このブログで繰り広げてきた、自己観察vs自愛論争。観客の立場は、「自分=意識」や「自己観察」ほど他人行儀ではなく(≒映画の中のことだからといって無関心にならない)、一方で、「自愛」ほどはべたべたしていない(=スクリーン&ストーリーには入り込まない)

言い換えれば、「別の領域」に浸るのに一番近い言葉というか。

前回の記事に「愛」と「愛情」は違う、という文章も書きかけたんだけど、まさに「愛」「見守る」「応援」みたいな感じ。観客ではあるけれど、「神の視点」といってもいいのかもしれない。エイブラハム本にあった「内なる存在」と一致した波動、といいうか。内なる存在と一致した波動のときに、明るい感情を感じて、一致していない時は、暗い感情を感じる、ってやつ。エリックさん自身の「優しい神様」も同じニュアンスなんだろうと思う。さきこさんの「View」の記事にも通じるものがある。

だからこそ、「気楽さ」もあるし、「既にある」もわかる。既にあるは、108さんの言ってた、「充足は私たちに作り上げるのは不可能」にもリンクする。

願望実現に関していえば、アプローチは違えど、「にたまご」さんの実現報告と、ほぼ一緒だと思うし。

そこがまさに、「立場」

なんかスッキリした~~

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