自分自身を愛する道か?自らが愛として生きる道か?

なんか結局、全部全自動なんだな~と思った話です。

「覚悟はいいか?オレはできてる」

浮上していたテーマ 「癒しか? 解放か?」

クリスマス後から、だいぶエゴが復活していて、うるさかったんだけど、「やさしい神様」をベースに、「優しい神様が抱きしめてくれている」みたいなイメージで過ごしてた。やっぱり、「癒し」って大事だよなぁ、って。

ただ、なかなか・・・思ったようにはいい感じにはならず、いや、最近の記事でも書いたように、いいことももちろんあるんだけど、体調の悪化や不満な出来事が増えてく感覚もあり・・なんか違う、と。

そんな中、ふと昨日の散歩中に、自分のこの記事を思い出して

「エゴなんかいない」と切り捨てるほうが、本当の自分にとっては、【楽】で【安心】なんじゃないのか?

意識としての自分と、その観察対象である愛や幸せの充足としての自分、比較したときに、やっぱり、愛としての自分の方がしっくりくるような気がした。

「自分自身」って、すごい言葉だ

「自らを分けた、自らの身(からだ)」ということ。

そこに愛がないから

今日は社内で「おまえら新年早々なにやってんだ?」みたいな醜いマウント取り合戦のトラブルがあって、直接的な被害は受けてないんだけど、「はぁ、もうこんな会社やだな・・・」、とだいぶ引きずられてしまっていたんだけど、ふと

と、認識変更直後の感覚をまた思い出した。

その後も、いろいろ考えてたら、結局、「不快な出来事」に反応したエゴの自分を「かわいそう」という感覚で、自愛をしてるんだよなぁ・・・ある意味、自分が最後の最後で「エゴ」と一線が引けないところは、その「情」みたいな部分なんだよなぁ、って思えて。

「ネガティブで苦しんでいるエゴの自分を放置しないことが、愛」ということで、自ら望んで、エゴの存在を認めていたわけですよ。(そして、その時々で、乗っ取られたりして)

そして、エゴとしての自分を愛そうとすればするほど、癒やされていない自分が次々と創造されていく、癒やしのマッチポンプ。インナーチャイルドの話かなんかの過去記事でも書いた話だな。

ただ、その「現実をスルー」する手段。それに関しては、「本当の私は意識」よりも、「本当の私は愛・幸せそのもの」というほうが、しっくりくる。元旦早々に投稿した記事でいえば、「スクリーン」ではなく、「映写機」としての自分。現実にとらわれず、内面で完結している自分。

なんというか、「意識」を意識すると、常にその観察対象としてセットで「エゴ」の自分が出てくる感じだけど、自分が幸せそのものだったら、他の自分は何にも出てこない。本当の自分・・・愛や幸せを感じている時に出てくるエゴは、実体がない、という意味もこめて、「影」のように思えてくる。

まとめ

内側だけをみる。自分の内側の消えることない「愛」だけに焦点を当てる。

前回記事で、やもりさんの言葉を思い出したのもそうだし、先日コメント欄でハニさんに紹介いただいた魔法コミュさんの「ラブマシーン」も、同じ話だと思うので、たぶん、そういうふうに行け!という、流れなんでしょうな。

コメント

  1. ななこ より:

    とんぺいさん

    今まさに私も、自分が愛そのものだったらもうそれだけでいいんじゃないかと思っているんです。
    愛であり幸せがデフォルトだったらもうそれだけでいいのでは?
    愛も幸せも全てが自分の中にあるなら外に求めるのはおかしいよね?と。
    まだ思い出していないだけでそれがデフォルトなら、何もなくても幸せが本当の私。

    自動思考に気づいてひたすら自分に意識を向けていたら、手放し(サレンダー)こそが私にとっての自愛だったんだと思いました。
    この辺はまたブログに書こうと思いますが、やっぱり愛なんだなーと思ってたらとんぺいさんの記事にも意識体というより愛そのものだと書かれていて思わずコメントしちゃいました!笑

    • tonpei より:

      >ななこさん

      コメントありがとうございます。  
      ななこさんの実践の効果が出てよかったですね!

      「愛も幸せも全てが自分の中にあるなら外に求めるのはおかしいよね」って、エゴがある程度薄くなってきたからこそ、出てくる思考だと思うんですよ。
      ななこさんも、同じところにたどり着いた同志ですね!

      ななこさんのブログの更新も楽しみにしています。

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