自愛系の集大成アプローチ
「世界から愛されている」の感覚は、「超安心」
「やさしさにつつまれている」よりも、もっと繊細。
ハートに向かって、何かが集まってきているような。
愛されるために、エゴが存在する
愛や幸せを感じるために、エゴが存在するのかな、って思った。
エゴの「わかってほしい」をわかってあげる
「あんしんしていいよ」
「しあわせになっていいよ」
「愛されていいよ」
「否定しなくてもいいよ」
「苦しまなくてもいいよ」
「悩まなくてもいいよ」
「責めなくてもいいよ」
エゴを安心させる?
「意図も全自動だとしたら・・」
まさに、世界から愛されている
「何がいいんだろう?」って、考える必要もない。望まなくても、最善がある。
世界が自分を愛してくれている
これまでの自分を、すべて受け入れてくれている。
→ エゴが鎮まる
→ エゴに自由意志はない=自分ではない。
→ エゴが責任を追わなくてもいい
→ エゴが幻想になりそう。
願望すら全自動なので、
「エゴとしての自分は、することがない、何もしなくていい」という「超・安心」
・・・だと思っていたんだけど、なんかもう、その「エゴ」すら、存在しなくていい。
こないだと真逆になっちゃうけど、言葉としての「安心」を求めるのか、安心できる「理屈」を求めるのか、もうすでに「安心」だったら、安心すら求めないよなぁ、という感覚。
わかっていても、なかなか切れない命綱
世界=自分なら、すべて完璧
苦しんでいるのは、エゴだけ。
★「既にある」のに、なんでいつまでも自愛やらメソッドやってんだ?
じさくじえん
「犯人が、犯人を考察してる」
「頭や理屈で納得しようとしてる」
→ してないから、理屈で納得しようとしている
「自愛」ごっこ、「癒し」ごっこ、から降りる
そう思うと、これまでは「癒される必要のあるエゴ」を作り出し、わちゃわちゃやってただけな気がしてきた。
頭の中が「人生失敗した」とか「もう死にたい」とか危篤レベルのエゴまみれになっても、何かそれを「観察」して「気づき」のきっかけにしようとして、その不快な感覚にとどまらせようとする、エゴ。
★「この方法・理屈で叶う」というのを見つけたかった
この「考察」自体が、悩みを作り出している。
→ 完璧な理論で納得して、「安心」したい。
「思考は自分のものではない」とか「考えなくてもいいよ」とかやってた。
で、ループしてた。。
結論
そもそも、エゴもいない
たぶん、一番の問題は「本願」に振り回されて、それによって、自分がエゴまみれ、不足まみれになってしまい、「今、目の前にある充足」を感じられなくなっていったこと。
たんたんと
よく子供の頃は「たんたんとしてるね」って言われてた。いろいろわかってたんだな・・・
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