最近改めて大事に感じる「不足を疑う」関連の記事をまとめてみたく。
前提が「もう叶ってる。すでにそれはある。」これを採用するとしたら
「ある」はずなのに見えないのはなぜ?ではなくて。「見えないと思ってる」その思考(認定)
「なぜ見えないの?」「だって今ないじゃん」という思考。
そして、それらの思考に付随する感情それらが全部嘘で錯覚ということになる。
ということが腑に落ちれば、その嘘の思考、感情に振り回される必要がなくなる。
そんな思考に乗っとられそうになっても、その思考が錯覚からの認識ということに気づいていればOKだから執着がダメというわけではなくて、執着することの意味がなくなる。
執着自体が嘘の思考なので、嘘の思考に振り回されて苦しい、なんて
わざわざそんな面倒なことできなくなる。そういう意味で、執着しているということはそのことがわかってない
(嘘の思考に騙されてる)だから叶ったり叶わなかったり。エゴからの願望は叶わないのか?は、エゴは「ない」という嘘が前提で欲してるので、
終始そこから視点が変わらなかったら実現は難しい。うまく手放せれば叶うかもしれないけど。「ある」を採用するなら、今まで自分だと思い込んでた思考が、
実は自分のものではないんではないか、集合意識とか社会通念とか記憶、
そういったデータ(思考は単なるデータベース)が再生されてるだけなんじゃ?
と、自分の思考や感情を疑ってみるところから始めてみたらいいかもしれないと思った。思考が自分ではないとしたら、本当の自分とは一体何なのか。
その思考を採用するかしないかを選べるんじゃないか、とか。
そこに焦点を当てて感じてみたらいいんじゃないかな。別に悟りとかなくてもこの辺は適用できると思う。悟りがあるとしたらその先かも。
自己観察式 27 自分の思考、それに付随する感情、それらが全部嘘で錯覚 | ザ・チケット板☆備忘録
悟りたい人以外は、そこにこだわる必要全然ないよ。
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