自分にとって害にしかならない思考を、頭の中からもブログからも過去ノートからも取り除く作業をしながら、自分にとって効果(現象化)があったこと、なかったことを整理していくと。
・別の領域に浸る → 効果なし。だけど、気持ちは落ち着く。
・イメージング → 実践中
・反対にあるもの → 気分は切り替えやすい
・吐き出し → 効果あり
・あるものはある → 実践中
・自分を責めない → 意識するとかえって責めることばっかり思いついて、実践不可。
自分にあったやり方を探しつつ、実践をしてきたけれど、後ほんの少し。もう少しだけ、先があるような・・・
と思っていたら、こまけえさんのこの記事を見つけた
記憶を取り払った上で現実を見てみれば、基本的にそれが自分=世界です。この状態に慣れていけば自ずと認識は変更されていくかと私は勝手に思っているんですが、願いを叶えるためには別に必須ではないとも感じます。ただ原理として基本的には一緒です。記憶を失った状態のまま願いを望めばいいだけですから。
例えばアイドルと付き合いたいとすると、記憶があれば「自分は可愛くないし下級国民だから」とかいろいろ心にわだかまりが発生しますが、自分が記憶のないただの意識であればその付き合いたいという思い(意図)だけが漂うことになります。何も不純物は付着していない、願望ではない意図です。自分が何者でもなければ不足は発生しようがないからです。自分がちっぽけな一人の人間という制限があるから不足が生まれるのです。
その思い(叶った世界)ってのは目には見えないですが、認識には確かに存在するものです。で、目の前のコップもなぜあるかと言えば、結局は認識です。視覚がそれを保証しているだけで、実はカップの存在自体は視覚によって左右されません。想像でも視覚でも、とりあえず心に浮かんだ時点で存在することになります。
要は心と現実を分離せず、その「思い」は「在る」とするだけなんです。心の中は妄想だからと目の前のコップとは違うなんてしちゃうのが、エゴちゃんです。それは一人の人間として世界とは分離してるという認識です。
自分=世界になれば肉体が消滅して世界そのものだった(心と物質が溶け合っている)ことがわかるので、その弊害がなくなるというだけなんです。このコップもワイ、願望もワイ、全部ワイ! 形而上、形而下の仕切りがなく、ただ何もかもが「在る」となるわけです。
物質と内面を分離させない|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!
すごくすごく、すべてが集約されていく気がする・・・
んで、自己観察さんの記事も
イメージングで叶えてる方もたくさんいらっしゃるので、有効な方法だと思いますが、
アプローチがというよりも、前提が「まだ叶ってない」というのと「もう叶ってる」とでは
180度違うので、そこら辺は理解されてたほうがいいと思います。本来、自愛も自己観察も本来の在り方(もう叶ってるという立場)なんですよね。
ただ「本来の自分」としての自覚がない方は、自愛や自己観察を「する」ことで
本来の自分の立ち位置を思い出す、これはエゴの視点から、全体的な視点にシフトするのが目的です。「意図」がブレたときの日々の対処というのは間違いではないんですけど、
「イメージング(叶えるためのメソッド)」と「自愛や自己観察(叶ってるという立ち位置)」
って相反してるんです。単に、自分の思考や感情の動きを見る、という意味でやってるんならいいかもしれないんですが、
本来の立ち位置を意識するという意味で自愛や自己観察するんだったら併用は無理です。でもあなたがイメージングなどのメソッドを手放せない状態なら、
自己観察式47 何かを望むのは、その「意図」が無意識にあるから | ザ・チケット板☆備忘録
いずれメソッドが必要ないということに気づくまで、という意味で併用するのはいいと思います。
自己観察で本来の立ち位置にいるとき「まだ叶ってない」という視点で
イメージングすることは無理だと気づきます。
びっくりした。「いまさらかよ!」って思った。
すげ~今更感があるんだけど
「自愛」や「自己観察」って「叶っている」立場からやるのね?
「自愛」や「自己観察」をすることで、「叶っている」立場に気づける、というニュアンスかと思っていた。
それじゃ、いくらこれまで、自愛しても自己観察しても何も変わらんわけだ。。。
あとは微調整
基本的には、エゴは「叶えたい!」と頑張ってきたので、叶っていることがわかれば、エゴも安心しておとなしくなるというか・・・感情ナビゲーションという点で、むしろエゴが味方に思えてくるというか。
まぁ、すぐまた別の問題を見つけてくるけどね。
「無条件の愛」への抵抗があったんだけど、それって「そのままの現実でいいよ」「叶わなくていいよ」なニュアンスだったからな。そりゃエゴも抵抗するわ。
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