心とか、魂とか。そんなのに縛られていた自分はなんなんだ?
しかし、この不可抗力という言葉、実は我々の日常全てが不可効力なんです。
例えば、分かれ道があって左の方に進んで落とし穴に落ちたとします。すごく後悔しますよね。あー、バカバカ自分なんて言って。なぜかって言うと、自分の意思で選択したと思い込んでいるからなんです。自分の意思だから、右に行く選択肢もあったはずだと後悔するわけです。しかし、これもよく考えれば不可抗力で、別れ道に差し掛かった時の気分、疲労感、気温、風の強さ、右の道に犬がいるなどなど、様々な諸条件の元で左に行くよう導かれていたわけなんです。つまり、自分ではどうしようもなかったんです。自由意志はなかったということです。
するとどうでしょう。後悔の念はさっぱりと消えて、心が軽くなって行きます。自由意志があるという錯覚、つまりエゴちゃんという錯覚が消えたからです。エゴちゃんは全て自分が決めてきたと思っているから、全ての選択や間違いに思い悩むわけですが、それが勝手に起こっていたとわかれば、どうしようもないし、自分には責任がなかったんだとスッキリするわけなんです。つまりエゴちゃんは全自動で動いているだけで、あなたには何の責任もないし、エゴちゃんが悩もうが怯えようが、それはあなたじゃなく、リアルなバーチャル世界の主人公が苦悩しているに過ぎないんです。
するとエゴちゃんは自分ではなくなったわけですから、そこら辺のビルや並木と同じように景色の一部になります。しかしその景色を認識しているのは誰でしょう? それがつまり、本当の自分とかそういった名前のヤツですが(それも実はエゴですが)、個人が消滅した意識がその風景を認識しているということは、その風景そのものが自分ということになります。自他がなくなるので、見えている感じているものが即自分はなってくるという仕組みです。対象をもつことができないので、全ては自分だったとことになるんです。
「そんな境地になれるか、バカヤロー」とエゴが騒ぐかも知れませんが、これはただの意識の慣れです。習慣です。自分を責めることなく、エゴの行動全てを許していけば、エゴという狭い器から意識が抜け出して行き、ラジオを聞こうと周波数を合わせるように、徐々に自分=世界の認識へと波長が合って来ますから。
しかし自由意志とかなんやかんや言いましたが、おわかりのように、これも結局自愛と一緒なんです。
ご無沙汰しております
全自動エゴに惑わされて、自分を責めないこと。自分に寛容になる。優しくなる。すると自ずと優しい世界が広がっていく。そんな単純な捉え方で十分だと思います。
エゴというものは制御不可能なんですから、制御不能なものと一体化すれば、当然世界は制御不能なものとしか見えません。ブレーキの壊れた車にわざわざ乗り込んで、「俺は海の景色が見たいのに、この車は山道を駆け上がっていくぜ、どうすりゃいいんだよ」と言っているようなもので、「だったら車から飛び降りればいいんじゃん」というだけの話で、もっと言えば暴走車に乗ってるのは妄想で、雲の上からその暴走車を眺めて、のめり込みすぎた余り意識だけが運転席に座っているという状態なんで、ハッと暴走車さえも景色の一部だと思い出せばいいんです。
しかし感情の渦に飲み込まれている時にはなかなかそこから抜け出すのは難しいかと思われます。なぜなら、再度の言及になりますが、制御不可能だからです。
ですからエゴはどうしようもないんで、思い通りにできないですし、しようとしなくてもいいんです。付き合うのは徒労、まさしく時間の無駄。夏の日差しを浴びて、エゴに「暑いなんて思うな、バカチンが」と言ったってそりゃ無理な話です。暑いものは暑い。それと同じで悲しいものは悲しい。辛いものは辛い。
しかしそれでも、思考や感情の波が収まった時に内面に自由が効く時間があるかと思います。厳密には自由ではなく、それすらもオートマなのですが、細かい話は抜きにして、その感情からフリーになった内面状態があるはずです。その状態が所謂、本当の自分と捉えてもらって結構です。
意識が今にないとか細かいことはどうでもいいんで、狭窄的にならず冷静にいろんな可能性や視点に目を向けられる(現実に対する認識を柔軟に変化できる状態)、シンプルにその状態が世界と一体化した在り方なんです。
自分=世界を感じているのも所謂エゴ(自分という意識)ですからね。自己嫌悪にあるエゴの立ち位置と自分=世界を感じている立ち位置はシームレスなんですよ。ピュアなエゴがどちらかを選択して、それを自分だと認識しているに過ぎないんです。エゴがなけりゃ、それこそ賢者なのか廃人なの仙人のなのかよくわからない境地に行っちゃうと思うんで。単純にエゴが意識の焦点を当てている先の問題です。その焦点の先をただ体験しているだけなんです。
エゴがどこに焦点を向けているか
それでも何とか廃人を抜け出したく、今年に入ってからも相変わらずまとめを読み漁っていたのですが、ある日「もう疲れ果てた。おい、何で今のままじゃいかん?何で変わらないといかんの?」と心の中で反発する声が出てきました。
その声が何となく気になって一度じっくり向き合ってみると、今まで自分は必死に内面や現実を変えようとしていた。まさに「変えようとしなければいけない(=今叶っていない)世界」を延々と作っていたんだと気づきました。
そして、自分の中で気づきがあっても達人の言葉に正誤を求めたり、「叶った自分ならこう思うはず」「叶ったならこんな事起きないはず」とどこか「こうあるべき」と理想の型を作り、そこから少しでも外れていたら自分や現実をダメ認定して、今回も叶っていない、と自然に結論づけていた。そしてそれがそのまま世界に反映されていたと。それから自愛に取り組み、「何思おうが何しようがok」と全てを許し続けていたら色んな関連付けが吹っ飛び、あぁ何も変える必要なかったんだ。ここではないどこかを追い求めなくても、今の自分そのまま、どんな自分でもいいんだと心底気づいて、ものすごく楽になりました。(本当に、内面を変える必要はないという内面の変化でした)
過去に私が試みた自愛は、「自愛すれば叶う。自愛できてないから叶わない」とか「自愛とはこうしなければいけない」という観念の上にあったもので、全然違うものだったと分かりました。さらに、ここは自分だけの世界で、全ての決定権は自分にあるんだから、自愛のどんな自分でもいい。というのも、結局自分がそう決めているだけでは?と思いました。
自分の認識がそのまま世界に反映される。
じゃあ例えエゴまみれでも、現実にボコられても、今の自分そのままでお金持ちで居ていい。とすれば=そういう世界が展開していくってだけのシンプルな事じゃん。本当に内面の決定だけが全てじゃん。
あれだけ強大に見えていた現実も、実は自分の決定に何の影響も及ぼさないペラペラな物だったのか。
もうまとめを読んで答え合わせしなくても、自分の考えや行動全てを正解にしてしまえばいいや。
などと、なんでも自分で好きなように認識すればいいと気づいた事、そのままの自分でいいという開放感で心が軽い毎日になっています。今まで通りの自分の生活や在り方は変わらずそのままに、「お金持ち」や「モテる」など好きな属性をつけている感覚です。
【読者様からの嬉しいご報告】~自愛でシンプルな仕組みに気づく~
私もずっとスピ廃人で、エゴの声にずっと流されていましたが、こまけぇさんの心を斜め2m上に設定するメソッドで、心は身体の中にあるのではなくどこにでも置けることを実感し、エゴ=心の声が自分じゃないってことが理解できました。
これまでは、私のスピの知識に沿って、自分の内面、心の声や感覚を大事にし、採用してきました。でも、それらは実は周りの刺激や記憶によって呼び起こされた反応=エゴだった。それを自分の考えや感覚だと思って何とかしようとしてきたから疲れていたんだと分かりました。
本当に楽になりました。心にざまぁみろって言ってやりました。お前のせいで今まで苦労してきたけど、自分の思考や感覚だと思っていたものは全てただの反応だから、自分ではない。もう振り回されて一喜一憂しなくていい。
そうしたら、「なる」のもとてもやりやすくなりました。反応=エゴはなくならないけれど自分ではないから、無視もできるし、むしろ好きなエゴを選ぶこともできる。自分はエゴの集積ではない、もっと偉大な存在だから、それができるんだと。
こまけぇさん、有用なメソッドを本当にありがとうございました。
やっていたのは、今内面で流れている思考プラス、それに伴って生じる感覚を自分から2mくらい離れたところから流れる放送として認識してみる、というやり方です。
そうすると、思考も感覚も自分じゃないなって感覚になって、距離を置くことができたんです。
それまでは、エゴに対して距離を置くというか、客観的になるということがどういうことか分かっていなかった気がします。
(追記)
上記の体験談だと具体性に欠けていた気がするので、少し補足します。
掲示板④ – こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!/#comment-13396
やっていたのは、今内面で流れている思考プラス、それに伴って生じる感覚を自分から2mくらい離れたところから流れる放送として認識してみる、というやり方です。
そうすると、思考も感覚も自分じゃないなって感覚になって、距離を置くことができたんです。
それまでは、エゴに対して距離を置くというか、客観的になるということがどういうことか分かっていなかった気がします。
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