認識変更できなかった自分を振り返る

これまでの自分の考察を、ブログに書き写しながら思うこと

悟りにこだわっていた

「自分=世界」の体感といってもいいかもしれないけれど、とにかく、願望実現に関係なく、「悟り」を求めている部分があったとおもう。
そして、一時的には、「無」に近い体感を得られるので満足するのだが、願望が実現する方向とは異なる。結局その後、反動でネガに振り戻されて、ループ。

ネガティブの開放にこだわっていた

上の理由に近いが、「ネガティブな感情」がなくならない限り、願望はかなわないと思っていた。いくら「ネガティブな感情はサイン」とわかっていても、延々と付きまとわれるネガティブ感情と思考にはうんざりしていた。
→ この「ネガティブな感覚」に対して、「ネガティブでも叶う」ではなく、「ネガティブでも、”あるものは、ある!”という感覚になれたのが非常に大きいと思う

よけいなものに振り回された

 調子が悪くなる節目節目で、商売スピリチュアルにはまってしまうんだよな。。。ノートを書くのは、自己観察という意味で有用だけど、それ以外の理論はあんまり関係なかった。

認識変更を”促す”メソッドにいつまでも取り組んでいた

 いま思えば、”自愛”も、”自己観察”も、”エゴから離れて、認識変更をしやすく”するためのもので、ある程度の段階で、実際に”認識変更”する必要があったのだが、いつまでも”メソッド”そのものにこだわって、認識変更そのものに取り組んでいなかった
自信がなかった、びびっていた、ともいえる。
思いを”切る”ですな。

直接的な”知覚”がなかった

 すでにある、は「いい気分でいるから、いいことがある」というような条件づけられたものではなく、もっと直接的に認識できるものだった。これまでの引き寄せの知識が、邪魔になった

不足を忌み嫌っていた。

 「不足」を感じるのは、「充足」を知っているから。充足がすでにあるから。全然難しいことじゃない。

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