ちょい待ち・・・
あれなんだ?、ある意味自分にとっての「願望」は、「不快な気分」にならないことだ。
「不快な気分が嫌だ」という
→ その不快を感じてあげるのが自愛。
→ エゴを押さえつけると、願望が実現しないぞ
→ 「現象化」のために、気分をコントロールしようとしている
といった感じで、一番の大本の「不快な気分が嫌」を、ダメ、ダメ、だめ、って、否定されていたような。
「どんな自分でも許している」
→ 「不快な感情」を、受け入れ続けなくてはいけない??
→ 「不快な感情」から、楽になりたい自分を許す
「自分の本当の願望」か・・・
「安心して過ごしたい」
「いい気分で過ごしたい」
→ 願望実現とは関係なしに。
ややこしいのは、「いい気分」が、「ある」、んだ。
この業界に足を踏み入れて約4年、暇さえあればこまけぇ様のブログや達人のまとめを読み耽っていました。「こうすればいいんだ。これで叶うぞヤッタ〜」と理解したつもりでも、現実にボコボコにされたり、エゴに流されていくうちに実践が続かなくなり、そして気づけばまたブログやまとめに救いを求めに行く…結局何も叶わないまま以後ループという、まさに典型的な廃人生活をダラダラ繰り返していました。
それでも何とか廃人を抜け出したく、今年に入ってからも相変わらずまとめを読み漁っていたのですが、ある日
「もう疲れ果てた。おい、何で今のままじゃいかん?何で変わらないといかんの?」
と心の中で反発する声が出てきました。
その声が何となく気になって一度じっくり向き合ってみると、今まで自分は必死に内面や現実を変えようとしていた。まさに「変えようとしなければいけない(=今叶っていない)世界」を延々と作っていたんだと気づきました。
そして、自分の中で気づきがあっても達人の言葉に正誤を求めたり、「叶った自分ならこう思うはず」「叶ったならこんな事起きないはず」とどこか「こうあるべき」と理想の型を作り、そこから少しでも外れていたら自分や現実をダメ認定して、今回も叶っていない、と自然に結論づけていた。そしてそれがそのまま世界に反映されていたと。
それから自愛に取り組み、「何思おうが何しようがok」と全てを許し続けていたら色んな関連付けが吹っ飛び、あぁ何も変える必要なかったんだ。ここではないどこかを追い求めなくても、今の自分そのまま、どんな自分でもいいんだと心底気づいて、ものすごく楽になりました。(本当に、内面を変える必要はないという内面の変化でした)
過去に私が試みた自愛は、「自愛すれば叶う。自愛できてないから叶わない」とか「自愛とはこうしなければいけない」という観念の上にあったもので、全然違うものだったと分かりました。
さらに、ここは自分だけの世界で、全ての決定権は自分にあるんだから、自愛のどんな自分でもいい。というのも、結局自分がそう決めているだけでは?と思いました。
自分の認識がそのまま世界に反映される。
じゃあ例えエゴまみれでも、現実にボコられても、今の自分そのままでお金持ちで居ていい。とすれば=そういう世界が展開していくってだけのシンプルな事じゃん。本当に内面の決定だけが全てじゃん。
あれだけ強大に見えていた現実も、実は自分の決定に何の影響も及ぼさないペラペラな物だったのか。
もうまとめを読んで答え合わせしなくても、自分の考えや行動全てを正解にしてしまえばいいや。
などと、なんでも自分で好きなように認識すればいいと気づいた事、そのままの自分でいいという開放感で心が軽い毎日になっています。今まで通りの自分の生活や在り方は変わらずそのままに、「お金持ち」や「モテる」など好きな属性をつけている感覚です。
【読者様からの嬉しいご報告】~自愛でシンプルな仕組みに気づく~
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