五感を超えて、充足だけがある

五感はリアル?

265:もぎりの名無しさん:2018/02/13(火) 23:02:19 ID:t1MKX1jw0

詳しく書くと、ラーメンを食べる→味がする(五感)→美味しい(実像)
エゴはこのように感じて考えて辻褄を合わせると思いますが、
本当は、美味しい(実像)のみが発生しているのだと思います。

五感はエゴを納得させる辻褄合わせなのでは?という意味で、
おそらく五感も幻だと思います。現実やエゴと同じく、
わざわざ五感というものを作って楽しんでるって感じで。

ラーメン美味しい!というのは、
五感を通して実像を見ているという感じですかね。

これは推測になってしまうのですが、108さんは、この感覚、
ラーメン美味しいや素晴らしい景色を見て素晴らしいと感じているその時のフィーリング、
これのみが実像であり、本当はずっとその状態なのが、本来の姿?
とおっしゃっているのではないでしょうか。

だから、五感を通して、実像(幸せや充足に浸っている時の感じ)を経験しなくとも、
ダイレクトに実像に浸ってしまうことも出来てしまうと思います。

実際に、イメージングで幸せな気持ちに浸ったり、
自愛をして良い気分になったり、五感を通さなくとも実像を感じることって出来ますよね。

266:もぎりの名無しさん:2018/02/13(火) 23:36:06 ID:t1MKX1jw0

>>265
>おそらく五感も幻だと思います。現実やエゴと同じく、
わざわざ五感というものを作って楽しんでるって感じで。

実像のみしかないと思います。
願望実現は何のためにそんなにやりたいかと言ったら、
やっぱりこの、実像(充足、幸せの感じ)が欲しくてたまらないからですよね。

それから、渇望感をなくしたい。

「願望実現して幸せになりたい」は
願望実現して(辻褄が合わせ)→常に幸せで最高の状態(実像)、
こうなるためだけに、願望実現(エゴがすごいと思う願望の)があるのかも?

常に幸せで最高の状態を感じていれば、
それは願望実現して幸せ状態の時と完全に同じだ…。

もはや現象すら要らない。

常に幸せで最高の状態を感じていれば、それは願望実現して幸せ状態の時と完全に同じ。 | ザ・チケット板☆備忘録

なんというかね、「願望実現」するために、幸せを感じるんじゃなくて、現実化関係なしに、幸せ感じられるんだったら、普段から、そのほうがよくない?、みたいなところなんだけど。

「思考」「感情」「五感」・・・「自分のもの」と思いたくなるすべての要素に振り回され、「現実」で、「充足」を実現しようと、頑張ってきたわけだけれども、それがそもそも「不足」前提のエゴの世界の発想なので、今、感じようと思えば感じられる「リアルの充足」を体験することを妨げている。

「エゴの領域」というのは、映画のストーリーにはまり込んでいるようなもの。自由意志がない。だから、「今」にいないと、現実のリアクションマシーンになってしまう。

でも、「エゴの領域から離れて、”今に在る”ことが大事」という「知識」みたいなものを延々と仕入れでもだめで、ともかく実践。「選ぶ」とは、世界線の変更のようなイメージで、「五感」と「充足(幸せ)」を切り離すことで、自分の主導権を取り戻す。

外側と内側

ことばは難しい

本当の自分とは「意識」そのものだ、みたいな記事を書きかけていた。

「世界を認識している、完全無欠の存在」
意識っていったら、こういういことだ。たしかに、この領域にいたら、絶対不足持てない

で、その「意識」は内側といえば内側だけど、「内側」というと、どうしても「身体の内部」というイメージがあると思うので。むしろ、「エゴ」から離れるためには、身体の外側に意識があると思ったほうがいいかもしれない。よく言われる、後頭部のうしろとか・・・自分は「頭の上」がやりやすいけど。

あと「自分の内側」というと、「思考や感情」と混ざりやすい。純粋な意識が意識しにくい。スピ系でやってた「自分の心の声を聞く」とか、今思えば、「エゴまっしぐら」だよなぁ・・

認識の変更の目的が「悟る」ことではなく、単に現実的にも「幸せ」を感じて生きたいということであれば、内側のリアル=充足を感じることなんだ。

自分の内側には「完璧」「幸せ」「充足」しかない

外側=エゴの「嘘」(=ネガティブ)の反応は、「向き」の話だ。

「充足」と反対向きの「影」が、「エゴ」なんだ。エゴの反応が強かったら、その反対を向けばいいんだ。

「既にある」ものを拒否しているから、ネガティブな反応が出ているとわかっていれば、「完璧」「幸せ」「充足」にもなりやすい。

・・・と、まぁ、ここ最近の結論みたいのを一生懸命書いたけど、こまけぇさんがもっとうまく、まとめてくれてるんだけどね。

願望実現とは簡単に言えば認識です。目で見るなり、耳で聴くなり、肌で触ったりして五感を根拠として、ようやく「願望が叶った」と認識に至るわけです、エゴちゃんにとっては。で、五感というものはあくまでも受け身であって、コントロールできないんですよね。現実を見て嬉しいやら悲しいやら、暑いやら寒いやら自動的に湧いてくるものです。

つまり、主体性がないというか、副次的なものであって、その五感自体が真実(真実もクソもないですが)を表してもいないですし、それ自体が何かを作っているわけでもないんです。

つまりその五感の感覚にあれこれ囚われることは虚構の中に生きていると同じなんですね。厳密に言えば、その虚構を真実として、世界を作っているんです、心(認識)が。よって、仮に願望が叶ったとしても、突き詰めればそれも虚構なんですね。ただ、どの虚構を選ぶ(認識する)かというだけの話なんです。

つまり従来の虚構の霧を振り払うためには(好きな虚構を選択するためには)、心(認識)の独立性を保つためには、五感の感覚を切り離すことが重要です。ただ、間違えても抑えるんじゃないですよ。「クソ、現実を見て不足を感じてしまった、ダメだ」なんてするんじゃなく、やっぱりいつものアレです。気付く(許す)ことです。その感覚を他人のものとして気付くことで、徐々に切り離していく。

そうするといつかお話ししたように、現実の景色の世界と、自分の内面の世界が分離しているような感覚になります。分離しちゃいけないんじゃないかとツッコまれそうですが、そうではなく、現実の景色が自分という内面の中にあるジオラマ(街)となり、それを俯瞰しているような感覚です。それを2つの世界と表現しているだけです。

その街には私を含め、人々が生活をしているのですが、自分(認識)は雲の上にいるような立ち位置で、その街さえも自分の中に内包されているような感覚なんです。私が主で、街が従です。ですから、その街でどんな出来事が起きても、私は雲の上にいるんでのめり込むこともなく、心が干渉されないんです。で、意図したことが不思議と街に伝わって、その意図の通りに街が振る舞ってくれるというだけです。伝わると言うか、感覚的に言えば、瞬間的に「意図=街そのもの」って感じです。

どの虚構を選択するか|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!

・・・なんかもう、余計な考察せずに、完璧認定だけしてればいいような気もしてきた。。

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