「自分の中にいる」

達人さんの自分=世界の言い換えとして、

「自分の中にいる」

という表現を聞き、

なにか、自分が大きなものに包まれているような、

すごく「安心感」が感じられて、「ああ~これが真実だわ」と腑に落ちた。

桑田さんの、「迷路ゲームのパチンコ玉」の話がすぐ思い浮かんだ。

具体的に書いてなくて、想像の余地があるのがいいよね。

108さんのデバッグだっけ、「主よ、あなたにとっての完璧を与えてください」を思い出す。

って、最初は自分も、

「どんなに自分の思考や感情が荒れても、<幸せ・充足>、は自分のなかに<いる>」

っていう理解をしちゃってたんだけど、自分=世界の表現と思うほうが全然肚落ちした。

こまけぇさんがいう「内面の変化」は、個人の内面じゃなくて、意識の内面って意味合いで、

むしろ「求めるものは、自分(=エゴ)の外側にある」

その後も、ぶつぶつ、「自分の中にいる・・自分の中にいる・・」とつぶやきながら、危ない人を演じていたんだけど、そういう意味では、「マントラ」に近いのかもしれない。

分離感からの解放

「自分の中にいる」という表現が刺さったのは、直前まで「分離」について考えていたのもあると思う。あれこれ思考しまくったり、エゴ塗れになっているときには、自分自身が世界や他者から、「分離している」・・・ってことだよなぁ、と。

それが、「自分の中にいる」という表現だと、エゴとしての自分自身がどれだけ苦しもうと泣き叫んで絶叫しようとも、それすら、自分の世界の中の話で、お釈迦様の掌の上の孫悟空状態というか、「何があっても、自分の範囲内だから、絶対大丈夫」という感覚というか。

そうそう、細かいこというと「自分」というと、「自」らと、「分」かれてしまう。というか、日本語っておもしろいもので、自分=分離したエゴそのもの、という気もする。

悟り系の本でよく出てくる、「わたし(=I)」のほうが、この意味合いの場合適切というか、

「わたしの中にいる」ほうが、表現としては正確なのかも。

しかしながら・・・

今度こそこれで完璧じゃん!って思ったんだけど、いとも簡単に吹き飛んでしまった笑

いや、もうほんと、笑うしかないんだけど・・・

現実が無視できなかったんだよね。

というか、「現実無視」の時点で、現実にしばられているんだなぁ、と今は思うけど。

というわけで、いまは、まずゼロになる「ニュートラル」だけを意識しています。

でも、ここ数日の記事の中に、すべて「本質」が集約されている気がする。これ以上、何か知識を求めるよりは、もうここに答えがある、はず。何か新しい概念をつかむかどうかよりも、「言葉」がすんなり自分の中に入ってくるかどうか、だけではないかと。

これまで、大きな気づきがある度に、こちらに「認識変更への道」とまとめていたんだけど、今読むと恥ずかしい部分も多いけど、なんか、確かに、そうだよなぁ、と思っている部分もあり。

そういう意味では、しばらく、過去記事の修正に集中したいと思ってます。

コメント

  1. […] 書こうと思ってた記事、「なる」に関してと、「自分=世界」に関してなんだけど、そちらの記事よりも、自分にとって最も大事だったのは、この「ニュートラル」という概念だったのかもしれない。なぜなら、これまで、この「ニュートラル」に関しては、そんなに重要視していなかったから。 […]

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