景色の歪み
ここ数か月で「温泉」が趣味になってるんだけど、昨日は片道3時間ぐらいかけて、「眼前に海の見える素敵な露天風呂」に行った。
だけど、相変わらず会社の仕事は溜まっているのと、前日記事を一挙投稿した影響か、「自分にとって何が正しいんだ」とか、「あの仕事がめんどくさい・・」「この状況どうすりゃいいんだ」とか考えてたら、全然、楽しくもなんともなく。
目の前の景色も、なんにも目に入ってこない・・・
さらには温泉のあとはポカリを飲むのが好きなんだけど、自販機が伊藤園しかなく、「ポカリスエットねえのかよ」とか、またそれはそれで不満が膨らんで。
何しに来たんだ?状態
目の前にあるものが見えていない
一回、温泉を出て、寝転がっていたときに
「いや、「今」目の前にこんなすばらしい景色があるのに、なぜ楽しめてないんだ・・・」
そして、ふと
「現実(=思考)見まくりじゃねーか」
って思って。
こまけえさんの「「現実」-「思考」=「今」すなわち、「今」+「思考」=「現実」」の記事もあったから。
そこから、改めて、自分の現状を振り返ってみたときに、
自分の願望に対しても
「現実ガン見生活だった」
ということに気づき・・・
特に本願は、「このままでもうまくいくんじゃね?」と、いい感じではあったんで、余計に現実的対処がメインになってた。
それでも時々は、「壁」を感じることもあったので、潜在意識の力を借りれば・・・みたいなところがあったんだけど、実際のところは、潜在意識どころではなく、ふだんの自分が現実で行動していることを記事に書いていたら、「え?あなた書いてることとやってること、全然違うんじゃないですか??」って、間違いなく言われるレベル。「現実ちら~」レベルじゃなく、どっぷりだったよ。
何をどう勘違いしているのか、メソッドも何も、ほとんどできてない(やっていない)ことに気づいた
こまけぇさんのこの記事を思い出した。
新渡戸先生降臨後の2ヵ月間と、それ以前の長年にわたる廃人生活との決定的な違いは、まさにこの実践における「必死さ」でありました。メソッド(現実無視や思考の客観視)を必死に実践していたからこそ不足や迷いの侵入する余地もなくなり、短期間で内面(=世界)に劇的な変化をもたらすことができたのです。
そしてまた、このことが意味しますところは、廃人時代の私の行いは到底必死といえるものではなかったということです。もちろん、廃人時代には書籍やネットなどであまねく知識を吸収し、あらゆるメソッドを一通り真面目に実践してきたつもりでした。しかし、結局これといった大きな成果もなく、時間だけが虚しく過ぎていきました。
ただ、真面目と自負していたそんな私の廃人生活を冷静に振り返ってみますと、1日のうちでメソッドを実践していた時間というのは、
実は1時間にも満たなかったと思われます
メソッドをしていると思っていた時間でも、その内実を見てみれば
「これでいいのか? これで合っているのか?」と実践という段階に至らないことも多く、不安になってはまとめサイトなどでその時の心理状態に即した記事を読んでは安心するという、実践をしているつもりが、その実態としてはほとんど実践といえるものではなかったのです。
つまり私の場合、廃人時代に現実が動かなかった(内面が変わらなかった)のには、
正当な理由
があったのです(後付けですが)
金と女が降ってきた物語―私が〇職になれた理由〈番外編〉⑤ ~廃人時代の過誤~|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!
いや、ほんとその通りなんですよ。「現実を無視した実践」「実践」よりも、「現実にどっぷりつかったまま」、「理解」ばかり優先になってた。
なんかの恋愛記事でも書いてあったな~。復縁願望の人は、連絡先とかわからないほうが、むしろうまくいく、みたいな。
潜在意識的には、そりゃそうだと思う。自分だって、あの最悪な時期から、よくもここまで立て直したもんだ。
ゼロになる
ごろごろ寝転がってて、「無」になりやすかった(半分寝てたかも)ってのもあるけど、
「ゼロになる」最強ですわ。
また言い回しの問題だけど、「ニュートラル」よりも、「ゼロになろう」が最高。
イウォーク師匠の言い回しもあるけど、「記憶をないものとする」ってニュアンスが、すごく実践しやすい。
そもそも、こういう「旅行」とか「絶景」って、はっと息をのむように「ふだんの思考」から離れられることに意味があると思うんだけど、ほんと、エゴ塗れになると、あるものも見えなくなる。ないものばかり見えるようになる。
しかも、「仕方ねえなぁ」と思って買った、伊藤園のスポーツドリンク、アクアビクス 天然水仕上げがめっちゃおいしくって・・・伊藤園さんすいません。ほとんど見る機会なかったから、おみやげとして買って帰った。
んでもって、休憩したあと、もう1度、露天風呂に入って、今度は堪能してきました。
絶景もよみがえったのでした。
根性論
そこまでわかってきて、また帰りもいろいろ考えながら帰ってきたのだけれど、なんだか、自分にとって、本当にやるべきことがわかってきた。
・気づくだけでいい
・安心していればいい
・ぜんぶおまかせ
・苦しむ必要はない
とかって、すでに達人の領域についた人が、あとから振り返って出た言葉であって、生半可な素人にそれは当てはまらないと思うのよ。気づいても変わらない。苦しい時は苦しい。真実だから、一時的に気分はよくなるかもしれないけど、数日でエゴにひっくり返される。
できもしないことを頭で理解してやろうとしているから、現実が変わんない。で、「達人さんの言っている通りにやっているのに変わらない」→「何かほかに知識があるはずだ」のループ。
自分には、自己観察も自愛も向いてない。それを無理やり適用しようとして、あ~だこ~だ、理屈をこねくりまわして考察するほうがつかれるわ
こまけぇさんとか、イウォーク師匠は、それなりの苦労人というか、いわゆる「廃人」を経験している人なんだよね。だから、ご自身の経験も踏まえて、わかりやすいんだと思う。
先のこまけぇさんの話に戻るけど、こういう実践系の記事は「必死でやってるのは潜在意識的には叶ってないからうんたらかんたら~」みたいな理屈がでてくるだけど、知らん。ってか、そもそもこの業界が矛盾することばっかりだし。
あとは、「根性」とはいえ、そもそも、自分の場合の「実践」って、「気分をねじ込む」「イメージング」が中心なんで、嫌じゃない、むしろ嬉しい行為のはずなんだよね。
そうそう、こちらのページを「実践まとめ」として、再編集してみた。
「実践」って形で整理してみると、自分が100%信じ切れていない内容はカットすることになるので、必要な記事もだいぶ少なくなるな。
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