アイデンティティーの放棄

ちょっと昨日の記事を再構成

エゴと一体化したい

こまけぇさんにもあったけど「自分らしさをなくしてく」って、大事だなぁと思っていた。

「全部エゴ」の実践はやってきたつもりでも、「●●ムカつく」、というエゴを作り続けている自分にふと気づいた。
イライラしたくないとは思いつつも、そのイライラする対象があることで、自分自身が確立していて(「おれはあんな酷いやつじゃない」、みたいな)、「●●が嫌い」な自分、という個性を作り出していた。それは結果的に「エゴと一体化したい」といってもいいかもしれない。あとは、「被害者意識」とか。自分が望んで、被害者の立場をやっているなぁとも思うようになっていた。

ごく当たり前のようにネガティブと一体化することで、一体から分離し、「個としての自分自身」を作り上げているんだ、ということがよくわかるようになってきていた

体調の悪い時や、寝不足なのか妙に日中眠いときは、エゴにとりこまれやすいのは無理もない。身体の具合が悪い時に、「自分はいない」なんてやっているのも、ばかげてるけど。

それでも、病気、とくに持病といわれるものなんて、最たるものだ。はやく治れとは思いつつ、病気にしがみついているところもある。病気を克服しようとしている自分、みたいな。

「自由意志はない」のは嫌だ、というのにも通じる。個人でいたいんだ

とまぁ、この思いも勝手に湧き出たものだけどね

チケット

ちょーど最近、チケットを読み直したいなぁと思っていたんだけど、いいタイミングだったかも。

「既にある」はエゴが認めていないのよね。

本当は、もう既にあるのです。
あなたがそれを認めていないだけです。
エゴの理屈を支えるために、あたかも「ないものを苦労して手に入れている」ように、既にあるものを回りくどい形で認識しているというだけのことです。(P213)

「私は常に満たされていたのだ。
 しかし今まではそれを許していなかったので、それを見ることができなかったのだ」(P234)

くわたさん

ぺんたぶさんが紹介していてくれた流れで、桑田さんブログも読み返していた。気になったのは下記の記事あたり。

そもそも何でメソッドをやるかというと、突き詰めれば「自分」を守るためです。
つまりメソッドを知れば知るほど、やればやるほど「自分」(エゴ)が強固になっていくという
パラドックスが出てきます。

あらゆるメソッドは結局、「自分」が傷ついたとか不安だとか感じた時のスケープゴートに過ぎないのであります。

これを認識してメソッド類に励むのと、認識せずに励むのでは大きな違いがあります。

「叶えるために」メソッドに取り組むんじゃないのです、「叶えるために」メソッドをやっている自分、すなわち「叶っていない」前提を無意識に作っている自分に気づくため
取り組むのです。

「じゃあ私の願望はどうなるんですか?」 そんな事知りません。ただ確実に言えることは「叶わない前提」を今、この瞬間に外したわけですからもう叶ったんじゃないの? と答えるしかありません。言い方を変えれば、「叶った世界を今、創ったんじゃないの?」ということです。

「え?でも・・・」と恐らく「何かしなくちゃ、何か考えなくちゃ」と思った人が多いかもしれません。何でか?エゴが「叶っていない」と囁くからです。
そう、自分でわざわざ「叶っていない」前提を欲しているんですね。

知らんモンは知らん メソッドを捨てるとき

一時期「達人のことばに振り回されるのは嫌だ」となったのも、メソッドまみれでエゴまみれになったからだなー。

個人的な感覚としては、ある願望が叶ったところを事細かくイメージするより
その時の感情に浸る方が効果的だと思います、簡単だし。

状況を事細かくイメージするのは、結局本来は存在しない「未来」や「過去」
イメージが入り込む可能性が高いからです。

「今」しか無いし「今」叶えれば良いのにわざわざ他のモンを持ってくる必要は
無いということですね。「時をかける少女」っつー原田知世主演の映画が
私が子供の頃にやってましたが、時をかけちゃダメなんですね。

ただこの辺は「時間」の概念とかが変わっていないとちょっと理解しがたいかも
しれないですね、「時間」も存在せず「今」しか無いことに気付けば、
感情に浸ってどうのこうのとかは実は関係ないんです。

つまりあらゆるメソッドはこのブログで言えば「源泉かけ流し」に至るための
ものであって、メソッド自体に神秘のパワーがあるわけではありません。
いくらブログでメソッドを書いたところで、それはただの文字の羅列以外の
何者でもありません。

~ 略 ~

「時間」が消えると、過去への後悔も未来への希望(不安)も無くなります。
何故ならそれらにリアリティを感じなくなるからです。

過去や未来に思いを馳せるのは何故かというと、叶っていないから思いを馳せる事が
多くなるわけです。つまり「時間」の概念に縛られていると、叶っていない世界に
ずーっと住んでる状態となります。

知らんモンは知らん 時をかけない少女メソッド

この記事は、以前から自分が好きでよく引用してる記事の流れだけど、桑田さんも初期から書いていたんだなと納得。

メソッドを捨てた後にどうなるのか、あるいはどうするのでしょうか。
答えとしては何も変わらないし、何もすることもありません。

というより何も変える必要も無く、何もする必要も無いことに気付くというか、
したくても出来ない状態になってしまうのです。

何故かというと昨日も書きましたが「叶えるために」メソッドに
取り組んでいる自分を捨てると、当然ながら何のメソッドもやっていない自分に
なります。何のメソッドもやっていないということは、叶ってしまったからです。

叶ってしまうと、もうやることが無くなってしまいます。
しかし、やる事が無いと言っても朝になったら目覚め、夜になったら眠りと
世界はオートマで動いているのです。

「叶っていない」と思うと、オートマで動いている世界に「干渉」しようとして
事態をややこしくしてしまいます。
「叶っていない」と喚くエゴが「自由意志を持ち」と錯覚してオートマで動いている世界に
ブレーキをかけようとして苦しむわけです。

「叶ってしまった」ならもう何もすることが無いので、エゴは世界に干渉出来ません。
世界は勝手に動いています、そしてその勝手に動き続ける世界こそが真の自分であります。

この辺はもう完全に感覚の世界なのですが、勝手に動く真の自分に気付くと、願望を願望として
維持するのが難しくなります。これは無欲になるとはまったく違う次元であります。
「全部あるのでやる事無いっす」に近いです。

知らんモンは知らん メソッドを捨てたあと

これが最近できるようになってきたのかな。何もないことに耐えられないというか、何もないなら苦しんででもアイデンティティーを確保したい。ある程度認識が変化してきたからこそ、残っていることにの気づけなかったエゴ的な部分がよくわかるようになってきた。

でも、そんなのはいらなかった、という気づき。

「勝手に動き続ける世界こそが真の自分」って、なんかかっこいい

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