久しぶりに、とりま引用だけしておく記事
「シンプルに」こまけぇさんの記事
二年前くらいに、○職さんのブログを知って、何回も読んでは実践してました。
【読者様からの嬉しいご報告】 ~前提を『ある』にすると全部叶った~|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!
その中で、今にある系をよくしてたのですが、ふと窓の外をぼーっと眺めていた時に気づいたんです。歩いてる人も、走ってる車も、そこにある建物も、僕の認識なくしては、そう在れないんだなってことに。認識なしにはそう在れないわけだから、今まで○○だから○○だと思っていたことが、何の関連性もないんだと気づきました。
じゃあ、そもそも叶ってないっていうのも僕が認識しているだけじゃん。
叶ってるって認識すればいいだけじゃん、こまけぇさんの言う通りだわとなりました。
それからは、長い廃人時代が嘘のように、どんどん上手くいくようになり、廃人時代に願ったことは全部叶いました。
認識が変わる速度が上がり始めて、それでもいまいち苦しさが抜けなかったんですが、最近やっと達人さんたちが同じことを言ってるだけだと腑に落ちました。
そしてシンプル。なぜ今までここをスルーしていたのか不思議に思います。(やり方がわからなかったんでしょうね)
ただ、「前提を変えろ」と言っているだけでした。
エゴもネガティブもメソッドも自分が何をして何をしないかすら関係ない。年明け頃、意識的にいい気分を選ぶようになってから良いことが起きたり夢が叶ったりして「なんだいい気分でいればいいだけじゃーん…でもなんか違うような」って感じだったんですが、今はいい気分かどうかすら関係ないからだと感じています。
でも、いい気分を自分で選ぶという感覚を掴んでから、嫌なこと起きてる最中ですらいい気分になれるんだな、まじで自分で決めるだけだから関係ないじゃん、とは思ってました。(当時は17秒メソッドしてました)そこから、「でもなんで叶ったり叶わなかったりするんだ?そもそもなんで叶えるために何かしてるんだ?そこから間違ってないか?叶ってるのに?叶ってるって何?あれ?あれ?」と頭がぐちゃぐちゃし始め、それでもこまけえさんの記事や達人まとめを読み続け、「あぁ、前提だ」となりました。
私が不安に思ってたことなんですが、「本心が叶う」とか「自分が叶えたいと思ってないから叶わないんだよ」とかいう文章に対してえぇ‥?じゃあ無理ってこと…?叶えたいと思ってないの?そんなん自分でわからんて…と原因探しの旅に出たりしてたんですが、それも関係なかったです。
叶っているがあるだけ。前提がどうなってるか、それだけ。
コントロールしなきゃいけない現実も存在していない。
「不味いケーキはなかった。」という表現が好きです。
A→Bにするのではなく、最初からBだった。
メソッドも、何もしなくてよかったんだと気付くためのものだったんだと思います。私が何か言っても、達人さんたちの言葉をなぞるだけになってしまいますね。
https://komakeekoto.com/%e6%8e%b2%e7%a4%ba%e6%9d%bf%e2%91%a3/#comment-15444
それくらいみんな言ってることが一緒でした。それに気付けたことに感動してます。
めきめき認識が変わっていくのがすごく楽しいです。
https://komakeekoto.com/%e6%8e%b2%e7%a4%ba%e6%9d%bf%e2%91%a3/#comment-15532
体感も何度も来るのが面白くて、最近の娯楽みたいになってます。
ついさっき「現象化がどうでもよくなる」という感覚がわかりました。まとめサイトとこまけえさんの神様ジレンマ記事を読んで、現実に証拠ないてないんだからそりゃ現象化なんてどうでもいいわな、と。
例えば復縁した私を選択し、復縁して愛の言葉を囁かれ毎週デートしてたとしても、それは復縁した証拠にはならないんですよね。
「〇〇だからこう」はない。原因はない。
自分が思うからそうなだけ。
強いて言えば自分がそう思うからってのが証拠。
そのくらい現実はどうでもいいというか、現実はオマケとか、こまけえさんの主従関係とかの表現がしっくりきました。
「そら(願望実現とは一見、外側の現象を指しているように見えて、実のところは内面で願望が実現したと処理されて初めて願望実現が完了するということや)そう(つまり、現実がどうであれ、結局は内面の認識で全てが完結されてしまう。ということは現実なんて関係あらへんの)よ」
そもそも「願望実現」って何? ~100回投稿記念~|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!
こまけぇさんの決定的だなぁと思った記事
この記事(そもそも「願望実現」って何? ~100回投稿記念~)の、「叶ったという認識で完結」って、よく言う「本当の願望はお金があるとか愛されてるとかから来る安心感、幸せを感じる事。
それは自分の心のことなのでいつでも叶えられる」てことですよね。↑詭弁やな?と思っていましたが、実践するにつれコレってガチやな と思います。
叶った事を思い浮かべてホルホルしたら実際もう内面では叶ってるんですよね。「あなたが本当に求めているのは叶った現実ではなく、叶ったことによる喜びや安心感なのです(キリ」というスピ業界に身を置いている人間なら誰しも一度は聞いたことがあるこのフレーズに「何言ってんだこいつ」と誰しも一度はツッコミをかましたことがあるはずです。私も廃人時代には「そんなふうに考えていた時期が俺にもありました」(当サイトのキャッチフレーズでした)。
しかし、エゴが即座にアレルギー反応を示す言葉にこそ大きな鍵が隠されているものです。と申しますか、上記のSontarkさんの仰る「詭弁」のような言葉が全てといっても過言ではなく、まさに潜在戦争(西南戦争を文字ってます)における越すに越されぬ田原坂なのであります。
皆さんもおそらく理屈では理解されているのだと思います(それだけで十分なのですが)。引用コメントのリンク先の記事でも書きましたように、現実の出来事であっても認識(内面の処理)をして初めて現実だと定義できるわけであります。この場合、五感をトリガーとして内面に現実をトレースして認識しているわけですが、認識自体は本来、何のトリガーも必要とせず行われるものです。そして、その認識が全てなのであります。
そう考えれば、エゴにとっての最初で最後の砦は、現実(景色)が真実で、内面が妄想だという認識を如何に逆転できるかなのかも知れません。しかしこれは「アファメーション」など思考に叩き込むやり方がある様に、何も体感を必要とするものではなく(条件にならないように何度も言及しています)、ただ知識として持ち合わせながら内面を真実として在りたい自分で過ごしていれば、現実がそれに呼応していきますし、徐々に本来の主(内面)従(現実)関係が構築されていき、俗に言うところの「認識の変更」もなされていきます。
ただ、ここであえて漠然と体感的なことを申し上げますと、今このブログをご覧になっているスマホやパソコンなどの端末が目の前に「在る」かと思いますが、その現実における「在る」が内面の認識によって「ない」と否定されることはないですよね? これがある意味での偽りの主(現実)従(内面)関係であります。
この関係性が本来の主(内面)従(現実)関係に戻りますと、発着点が変わっても全く同じ現象が起きるのです。つまり、内面に「在る」と描いたものが、現実においても「ない」と否定できなくなるのです。もう少し表現を変えれば、現実に比重を置いていないので、現実における現象などは鼻から眼中になく、それによって認識が左右されることがないのです。
自分が何を根拠に「在る」と定義しているのかを探っていくと、何かに突き当たることがあるかも知れません。
本来の主従関係では「ある」は否定されない!!|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!
まとめ
ほんとに重要なのは、「エゴとの付き合い方」
自愛なのか、自己観察なのか・・・「エゴは全部嘘」でもいいし、「現実は嘘」でもいいけど、エゴとうまく距離がとれているのであれば、認識がぶれることはない。
そのあたりの、微調整。
ちょっと話がぶれるけど、一般的に「まじめ」といわれるのは「思考重視」的な感じではないかと思った。「まじめでいい人」なのに、思うように願望を叶えられんのは、「思考(=エゴ)」の影響なんだろうな、と。
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