画竜点睛を欠く。。

今年始まったばかりだけど、今年最後の記事でもいいやと思うぐらいの勢いで書いてみた。

今度こそ、結論。

なんかね・・・年末からあれこれ記事を書いていたのは、「これだけに集中する!」って方針がほしかっただけなのよ。何か、あとほんの少し・・・と見えてきていた感覚があっただけに。

そして、そして、ついにその「集中すべき点」に、やっと気づけた。

ただ、気づけたはいいものの・・・当初考えていた「理論」は何の関係もなく、あまりにも、「画竜点睛」だったなぁ、「仏作って魂入れず」だったなぁ・・・と、このブログの空虚さにガックリしている部分もあり。

こまけえさんをどうぞ

こまけえさんの最重要記事

前回の記事からはずした2つの記事。これがすべて。

叶う!ではなく、叶っている

この、こまけぇさんの力強い感じがたまらない!!

>「極論何をしていても何を考えていても叶う、って決めればいいらしいけど」

厳密には「決めようが、決めまいが、既に叶っている」です。なので、

>「そう決めてもエゴに飲まれてる時間の方が圧倒的に長いせいで叶ってないんだろうなって思う」

叶っていないだろうなと思おうが、叶っているんだろうなと思おうが、叶っているものは叶っているので関係はありません。

例えば宝くじが当たって口座に3億円が振り込まれるという願望が実際に昨日、叶ったとしましょう。その上で以下のような思考が今日、頭を駆け巡ってきたとします。

「エゴと同化してることが多すぎて、神が神であることを忘れてしまっている状態の方が長いとやっぱり叶わない?よね。極論何をしていても何を考えていても叶う、って決めればいいらしいけど、そう決めてもエゴに飲まれてる時間の方が圧倒的に長いせいで叶ってないんだろうなって思う。もうずっと空想の中だけで暮らしたい。内側だけでいいなら肉体必要ないと思うし」

そうすると口座に振り込まれた3億円が消えてなくなりますか? 消えるはずがないですよね? もちろん願望が叶ったんならそんな内容の思考は出てこねぇだろうとのツッコミを受けるのはわかっていますが、極論、実態と感覚はこれなんです。

ただやっぱり認識が変更していないエゴの立ち位置からではそれを頭に入れておく必要はあるかとは思いますが、

>「エゴと同化してることが多すぎて、神が神であることを忘れてしまっている状態の方が長いとやっぱり叶わない?よね」

長さは関係なく、忘れてしまっていても仕事の休憩中や風呂、寝る前などにふと思い出していけば、その時点で過去に遡って不足が充足に転じますので問題ありません。

まあ言葉で説明をする際にはどうしても「こうすれば~こうなる」といった因果関係を想起させてしまうので、却ってそれが読者の内面にある種の制限をかけてしまうことにもなるのですが、この業界の目的とするところは本来「~すれば叶う」という因果から解放なのです。「何をしていようが叶っている」、これです。因果に囚われている限りそこは俗世の芸能界と何も変わりはありません。それは芸能人ならぬ、ただのスピ脳人です。皆さんも因果を超越してスピ脳界から引退(卒業)しましょう。

因果というスピ脳界を引退しましょう|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!

「決めようが決めまいが叶っている」

「長さに関係なく」「忘れてしまっていても」

「何をしていようが、叶っている」

・・・エゴによるエゴのメソッドを経由した「願望達成」を、完全に否定している

打ち消されるものではない

もう1つ同じ方向で。

なぜそのくだりをスピリチュアルの境地と記したのかと言えば、これは本当の自分(別の領域)とエゴとの関係性にピッタリと当てはまるからであります。つまり西暦が体調の如何によって干渉されないのと同様に、エゴが「クリスマスにぼっちで寂しい」といくら喚いたところで別の領域には既に恋人はいるし、そのエゴの嘆きによってそれが打ち消されることもないということです。

ですからエゴを無理やり「既に恋人がいるんだ」と充足の方へ強制したり、無視したりする必要もないわけなんです。エゴが泣きたい時には泣かせればいいし、怒りたい時には怒らせておけばいいんです。エゴが泣こうが怒ろうが西暦は変わりませんよね。それと同じようにエゴがどんな状態であろうと別の領域では既に恋人がいるのは不変なのです。なぜなら、そうした右往左往するエゴちゃんの動きも叶った世界だからこそ発生して来たものだからです。

現実と叶った世界との「意識の住み分け」|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!

「なる」関連で、「なったあと、の世界は、すべて叶った世界」みたいな話があったと思うけど・・・そこだけは正直、意味が分からなかったけど、やっとすこしわかってきた気がする。

一番ストレートなのが、これ

上記2つとは違って、けっこう昔の記事だとおもうけど、これがすべて。

さて、皆さまからのコメント欄でのお悩みなどを拝見していますと、ほぼ全てにおいて私が辿ってきたものと同種のお悩みで、ご病気をされている方を除きましては(私は大病の経験がないもので)基本的に私が経験しなかったお悩みや葛藤のパターンというものはないといった印象であります。つまり、私の中では皆さんのお悩みは一様に「あるある」なのでございます。ゆえに皆さんの誰一人として願望が叶わない特殊な性質を持った人間はいないわけです。

ただ、なぜ願望が叶わないかといった理由に関しては、もちろん私はその人自身ではなく内面状態を詳細に把握することができないため、その原因を私があれこれと判断することはできません。ただ一つだけ廃人の皆さまに共通して言える結論部分があります。それは、

願望が叶っていないと認識している

ということです。

まあ当然といえば当然ですが、願望が叶ったかどうかを判断しているのは自分ですから、その自分が叶っていないと認識していれば、「自分(認識)=世界」であるため、それは叶っていない世界ということになります。最近はあまりにこまごまとした記事が続いていましたので、久しぶりにサイトタイトルの如くシンプルかつダイナミックにいきますと、不足の感情が湧いているからとか、現実が理想に見えないからとか、そういったことが叶ってない原因ではないのです。ただ、あなたが叶っていないと認識している、それが根本なのです。

つまり、思考や現実などは叶っていないという認識を裏付けたいがためのエゴちゃんの言い訳であって、全ては結論部分の認識次第なのであります(何百回と言っていますが)。

認識とは世界そのままです。在り方の前提を変えるとも言いますが、本当にただそれだけなのです、マジで。認識を変えた後にもしばらく何変わらぬ日常が続くかもしれませんが、その世界の認定(属性)は180度変わっているのです、マジで。

例えば、恋人が欲しい方でしたら、

恋人がいないと認識してる

恋人がいると認識している

難しいことはありません、こまけぇこたぁいいから、これだけであります。認識(在り方)に着目していれば、誤解を恐れず申し上げますが、世界の動かし方がわかっていきます。

そう認識しているから「叶っていない」!!|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!

上記の記事も含むけど、補足でこのあたりもどうぞ

メソッドという「逃げ」

さぁ、あらためてこの脳天を直撃する「こまけぇさんのド直球」に対して、自分のやってたことはなんだ!?

「イメージング」にしても、「在り方」にしても、エゴからのアプローチ、なんだよな。

どんどん条件付けを増やしてしまっている・・・

要は、こんだけ理論やメソッドについて突き詰めているくせに「意図してない」「意図を先に延ばしにしている」んだ。

もっといえば、突き詰めれば「叶わないと思っているから、メソッドという不思議なちからで叶えよう」みたいな気持ちも、心のどこかにあった。遠回しに叶えよう、叶ったらいいな・・・ぐらいに、保険を打っているというか、いい気分だけで満足してしまっていたというか・・・

叶わなかった時に困るから!

「どこぞの達人の話を全部理解してから適応」みたいなことは、ここ数年やらなくなっていたけど、実践しているつもりではあったけど、やっぱり意識的にしろ無意識的にしろ、ド本命の理屈からはピントが外れていた気がするな。

意図キャンセルしまくり界隈

その一方で、というか、それどころか、 

「何を思っても何してもOK」という自愛が

 「叶わなくても、いい」って方向になってたり、

「叶っている内面=幸せを感じている内面」 の理論が、

  → 幸せを感じ「なければならない」
  → 幸せを感じられない = 叶っていない内面

と・・・やっていることが、めちゃくちゃ。

そして、少しでも内面が崩れると、

「エゴが叶っていない認定しちゃったから、もう叶わない」

と、「叶える」のは散々条件付けして神格化するくせに、「叶わない」は「秒」で即決して、それを、さも自分の真実化のように、不幸確定させる。

これまで散々苦しめられてきた噴き出すネガティブは、おそらく「現象化」するまで止まらない・・・それはネガティブな感情が悪いんじゃない、いつまでも「叶えない」「叶えようとしない」自分に対しての怒りなんだ。

「意図」が示すもの

ただ、「意図しよう」っていうと、自分の日本語の解釈的には、「何かをしよう、手に入れよう」っていう、エゴレベルの「行動」を促しがちでだったのは確かで、「意図するためにイメージングしよう」みたいにはなってた。

あと、どうしても、「本願」とか、自分が「願望」として認識していることだけに、集中しがちだった。

そうではなくて、大なり小なりネガティブやストレスがある普段の生活の中から、「意図」をなじませていく・・・ことが大事なんじゃないかと思ったり。

そうすると、自分の場合は

いま、何を「既にある」にしたい?

みたいな問になる

たしか、エイブラハムの赤本に「節目ごとの意図確認」ってのがあったはずだけど、まさにあれとおんなじことだ。

これができていれば、ここまで仕事が激化することもなかったはず。。

よく言われる「水を飲むのも願望実現」だとしたら、その理屈に「理想の人と結婚」とか「不労所得」とかハードル高いのをねじ込む前に、普段から「練習しろ」ってことだなぁと思う。
そういう時ばっかり、さとり系の「1円も100万円も一緒」みたいな謎論理(しかも実現報告なし)を適用してるんだよなぁ・・

「叶っている」を強制的に適用したときの、エゴの反発をことごとく受け入れていくって方向でもいいけど。

「コントロール」に関する大きな誤解

そして、これも、今回の重大な気づきだったんだけど、

思考や感情という、勝手に湧きだしてきて、自分のふりをしているもの、

「コントロールできないものをコントロール」しようとしている

これは、「いい気分」なら「現象化しやすい!」という、エゴとしての自分のいちばんの「得意技」、イメージングが全く通用しなくなったときに、はじめて、「降参」したというか・・・数十m級の感情や思考の荒波が来ているときに、せいぜいエゴでコントロールできる思考感情なんて、数十センチみたいなものだ、という無力感を徹底して味わったからこそ、納得したわけで。

その一方で、エゴ(人間)としての小さな自分には、「(恐れ多くて)とてもコントロールできない」と思っていた「現実認識」「設定」のみが、唯一コントロールできたという。

なんたる皮肉。。。なんたる自己矛盾。

しかし、、これがわかったとき、納得できた時にはじめて

「エゴはスクリーン」の話や、パンツのゴムさんの話が、完全に理解できる。

自分も著名な達人は、ほぼほぼ質疑応答含めた回答知ってるつもりだけど、「メソッド実践してればわかるからわかるまでやれ!」という努力型の達人のスパルタ指導と、「俺はわかっちゃった、つまりこういうことなんだよ!」という天才肌の達人のよくわからないポエムとの間のギャップがどうにも埋められず・・・、こういう理屈書いてくれた人、いない気がするんだけど・・・(U4さんぐらいか?)

「自由意志はない」とか、桑田さんの「パチンコ台」の話も、ぜんぶつながるよね。

言葉の問題だな~

「叶っている」だと、「叶ってない!!」というエゴの反発を引き出すけど、(望む状況が)「既にある」という言葉だと、すっと、エゴから離れられるような・・・あくまで自分の場合だけど。

「叶っている」は、「既にある」でもあるし、「意図」でもあるし、「向き」でもあるし、「設定」ともいえる・・・なんでもいいんだよね。映写機のフィルムに相当する部分なので。

「内面が真実」みたいな言葉もよくないよなぁ・・・
「真実」という言葉が、なんらかの「神秘性」、自分では簡単にわかってはいけないもの、といったニュアンスを与えてしまうような・・・

そういう、個々人で同じ言葉でも受け取り方が微妙に異なり、刺さり方も違う、ってのは、文章中心のこの界隈の限界かもしれないけどね。

まとめ

「自分の内面を変える」必要もないし、ましてや「認識の変更」(≒悟りに近い意味で)など起こす必要がない。

必要なのは、「叶っている」という意図=「認識」だけだったと・・・

意図の重要性については、チケットの1章にも・・・そして何より、7章のまとめに書いてあるじゃんかよ!!

必要なのは、単なる「意図」です。

強力な意志ではなく、なんの力も入っていない、単なる「意図」です。

「ここにあるものを見よう」という、単純な意図だけなのです。

チケット P235

まぁ、「いろいろ、いろいろやりつくして、やっと「これしかないじゃん」というのにたどり着けた、という意味では、これまでも無駄ではなかったのかもしれない。いわゆる、自分なりの3章~6章をたどってきたからこそ、「叶っている」が受け入れられるようになった、とも。

書きかけだった2記事は、「エゴ」による実践や、「エゴの中の気づき」の記事だったので、いったん「ボツ」にするけど・・・ひょっとしたら、そこの気づきも、無駄ではなかったかもしれないな。

ただいま、メニューの固定記事内容を見直しているので、その際に補完的に書いていくかも?

まぁとにかく、、もうあとは「何が起きても、どんな自分でも、叶っている」の実践しか道が残されていないので、たんたんとやるのみです。

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