エゴから離れること
方法はなんでもいいので、とにかく、エゴと距離を取ることが、認識変更の早道
「既にある」
「既にある」は知覚の問題、適用の問題
「それがある」という認識を許す
不足があろうが、不安があろうが、思考でエゴまみれになろうが、インナーチャイルドが泣き叫ぼうが、ペインボディに乗っ取られようが、充足を感じられようがなかろうが、
「あるものは、ある」
叶える以前に、願望が沸いた時点で、既にある。
最初から、叶っているので、「無条件で叶える」もなにもない。
もう認識も変更している。
エゴからの意図は、「ない」が前提。
自分=世界からのからの意図は、「ある」が前提の、選択。
「愛」「充足」は、「既にある」
・ハートのあたりにある、幸せの「源泉」
・「実像」・・・あらゆる幸せの元
・ほっとする、穏やかな安心感
・「静か」で穏やかで満たされた気持ち
・大好きな彼女といるときの、穏やかでもう何もいらないほど満たされた気持ち。
・胸のあたりに感じられる、温かい気持ち。穏やかな心地よさ、安らぎ、安心感、安寧
・愛されている心地よさ
・丹田から湧き上がる心地よさ
・「あたたかい方向を向く」こと
・「安らぎ」を感じること
・「味わいたい気持ちを、味わう」こと
「願望=実現」にならないエゴのパターン
内面で充足(=実現)している「認識」をスルーして(味わおうとしないで)、外側に「不足」を見つけたり、勝手に沸き上がった「不足」に振り回されて、エゴが「実現」を放棄。
「ない!」思考は思い込みによるもの。「ない」という「判断」(=思い込み)を信じ、その大前提の上で、「エゴ」が「現実」でなんとか「実現」しようとがんばってきた。勝手なお喋りに振り回されてきた。
別の領域に浸っているときほど、「大ネガティブ」が来た時の反動が大きく、「別の領域なんてうそじゃん::」って解除しちゃうんだけど、そこで、「分離」しようとしている自分に気づけるか?
「行動不要」
慌てたり、焦ったりするのは、思考から何かやろうとしている時。
愛や充足に浸っていれば、行動は勝手に起きてくる
個人的には
いろんな達人さんを読みつつ、「自分自身が愛であり、幸せそのもの」「別の領域は愛そのもの」とも思ってんだけど、自分にとっては、分けたほうがわかりやすい
「意識」は、現実を生み出す鏡のようなもの。
「愛・充足」は、あらゆる幸せの原料、みたいな。
分けなくていいんだけど、分けたほうが「エゴまみれ」「不足まみれ」になったときの対処がしやすい
「意識」がエゴに捉われていると、エゴの本質的な性質である「不安」「不足」感によって、現実も不安・不足だらけになる。この時、「自分自身が愛」って思考があると、エゴの不足の集中砲火で「愛」にいられない自分を強く認識することになり、不足感がさらに強化される → ループ。
エゴまみれになったときは、まずは意識の自分に戻って、エゴまみれの自分を俯瞰する。そこから、意識そのものの性質である「安心感」を最優先すべし。
自分自身が「意識」であることを自覚した上で、「エゴ」ではなく、自分の中にある「愛・充足」を選ぶ
達人さんのいう「認識の変更」
達人さんにより、微妙にニュアンスの違いがみられる「認識の変更」についての記述をまとめてみた。
こまけぇさん
「『なる』シストへ捧ぐ」の記事でもそれらしいことを書いたのですが、「なる」を実践していく中で、思考や現実に集団リンチを食らって「なる」を解除し、不足にまみれた「元の自分」に戻ってしまうことが多々あるかと思います。そんな時、「元の自分」であるという思考の上に強引に「理想の自分」という思考を被せて「なる」を再開するより、一旦「元の自分」であるという思考をただの現実に対する反応だと客観視し、そのことで自分が「元の自分」に戻ったのではなく、「元の自分」になっていたことに気付くよう意識します。「元の自分」がデフォルト(不変)ではなくただの思考(可変)であると気付くことで、それを「理想の自分」という思考に置換することが容易になるのです。
結果的に私は以上のようなことを繰り返し実践していたのですが、このことで絶対視していた自己(エゴ)というものの根幹が揺らぎ始め、その脆弱性を目にしていくにつれ、徐々に自分は何者でもないただの意識であると体感できました(体感しているのもエゴですが)。
この「自己の崩壊」が「認識の変更」そのもので、自己(主体)がいないということは他者(対象)もなく、「自分=世界」となるわけです。
世界がすっぽり自分の中に収まり、世界の在りようが自分の内面そのものという実感に繋がっていくわけです。
つまり、認識の変更とはあくまでも実感なので、実感できなければ「自分=世界」が適用されないというわけではありません。実感できようができまいが、「自分=世界」は万人の土台となっていますので、知識として押さえていれば、それを利用して願望を叶えられるというのが、当ブログの趣旨です。
コンボで「認識の変更」!!|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!
エゴ(自我)とは、現実に対する反応であります。「親」に会えば「子供」として振る舞い、「会社」に行けば「部下」になり、「女性」の前では「男」を意識し、便所で「デカい〇ソ」をすれば「俺のだ」と反応するのです。そして、そのような局面局面で反応したエゴという単色だけで内面のキャンパスに描き込み、それを現実に投影させています。
現実に重心を置けなくなるというのは、現実の事象は思考(記憶)の関連付けによる観念(反応)であると理解しているからです。「親」というものも記憶からくる観念ですし、当然、それに反応する「子供」も観念です。観念とは言ってみれば幻想ですから、幻想だとわかっていてそれを内面の柱にできるわけもありません。
つまり、エゴが幻想であると見抜くことで、今までは単色でしか描けなかった内面のキャンパスに、本来はどんな色でも、どこまでも自由に充足を描けることができるんだと気付けるのです。そして、内面のキャンパスに描いたことが真実(今)だとわかっていますので、それが現実に投影されようがされまいが気にならなくなります(投影されますが)。
願望というのは叶っていないから願望になり得るわけで、心に描いた時点でそれが「在る」と確信できるので、願望という概念自体が吹っ飛んでしまいます。
これが前回のプロローグで私が「認識の変更」の定義としました「願望が願望であることを保てない」の真意でございます。
「既にある」ってこれですか、達人さん?|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!
自己観察さん
721さんは、何か特定の願望を叶えたいというよりも、総合的な人生の変化を
望んでらっしゃるのかなと思ったんだけど(自分もそうだったので)
それならやっぱり「認識の変更」をすることが近道かなと思う。そもそも「認識の変更」って何なのかというと、それは
「今の自分でいいんだ」ということに気づくことだったりする。
どこに行かなくても、何も変わらなくても、このままの自分でよかったんだー!
と、心底腑に落ちることです。現実を「なんとかしよう」とするエゴを超えて、今の自分のままで完璧なんだと深く理解することです。
でもエゴからすると、「何も現象化されてない今がいいわけないじゃん!」ってなるよね。
エゴは「~~しよう」というのが本質なので、もっと良い状態、もっとすばらしい自分に
「なろう」として、その方法を探し続けてる。そして、探し続ける限り、それは永遠にループしてく。
「認識の変更」が行われない限り、私たちは永遠に探し続けることをやめられない。
その認識の変更を起こすために、isaさんは「ありのままの自分を愛せ」とおっしゃってたんだと思う。(余談だけど、よくここで「質問に答えることは質問者さんのためにならない」って話題が出るのは、
このエゴの探求の無限ループにはまってるよってことを言ってくれてるんだと思います。
なので、なにか質問したくなった人は、そういう自分に意識を向けてみるといいんじゃないかな。
質問するのが良くないということではなくて、自分がどういう意識からそれを知りたいのかに気づくと
答えを聞くよりももっと大きなものを得られるかもしれません。)私は自愛がうまくできなかったから、ダイレクトに別の領域に浸ってたんだけど、
そのおかげで認識が変更できた。深く体感できたことで、別の領域にある真実を
エゴの幻想に引き渡すことができたんだと思う。キモはやっぱり、体験に基づいた理解と信頼です。本当の自分とは、エゴで認識してる「足りない」と思ってる自分ではなくて、
別の領域に存在する愛とか完璧とか充足こそが本当の自分だったんだ
と腑に落ちたら、気がついたら人生の流れが変わってた。721さんが今感じてる不安は、どんなに強力そうに見えても幻想にすぎないので、
自己観察式 02 認識の変更とは 「今の自分でいいんだ」 という事に気づくこと | ザ・チケット板☆備忘録
それはただ消えていくしかない。そして、世界の美しさや軽やかさ、そういったものを
感じられる現象が起きてきて人生の流れがスムーズになっていくよ。
認識の変更というのは、今まで「私が思考して行動してる」という思い込みが、
思考・行動している私がいないことに気づく、不足の思考は幻だったってことです。
で、実際は幻であるものを「私の思考」だと思い込んでるから思考に従ってしまうんですよね。
不足の思考に何度も気づくことによって、その不自然さに気づきやすくなると思います。>世界=自分とか現実は内面の投影とか実感、体感として分かって来るのですか?
そうなると思考で世界を分割していろいろ貼ってたラベルが幻だと気づくので、
自己観察式70 認識や気づきが自分という存在の正体なんです | ザ・チケット板☆備忘録
全部自分でしかないわけです。「内面の投影」は間違いではないですけど、
それも分離的な、部分的な表現になってると思います。
全部が自分ということなので。
TGg5liU.0さん
二元論で判断するのはエゴの範疇なんですよ。
これは良い、悪いと判断しているのは思考ですよね?
そうではなく、もともと安心しかなかったんです。これが実像。だから、何も求める必要がなかったんです。
既に安心なのに、安心になろう、とはならないですよね。願望も同じで、既にあるのに、
求めようとするのも変だってことだったんです。認識の変更はもともと安心で充足に満ちていた、
TG式 08 どんなエゴが出てこようとも、実現していた事実に視点を置いてください。 | ザ・チケット板☆備忘録
ということを思い出すことなんです。