一般的な自愛は、「愛する自分」も「愛される自分」も「自分=エゴ」で、「エゴA」が「エゴB」を愛することで、「エゴA」が、別の領域っぽくなってくる、ってことを目指していると思うんだけど、
いまの自分の感覚は、「愛する自分」は、「自分=世界」の「世界」のほうで、世界が勝手にエゴとしての自分を、愛してくれている。
というか、これまでもこれからも、ずっと愛されていたことに気づく。
エゴの自分がなんかする、というよりも、完全に受け身の世界。
なんにもすることがない。まさに、フルオート自愛。
「エゴとしての自由意志はなかった」ってことにもなるし、
それによって、エゴとしての自分が薄くなってくれば、当然、「自分=世界」にもたどり着く。
世界からは「愛・充足・幸せ」という意図しか湧いていない。
エゴが不足感から、「ない」を選択して、充足をせき止めなければ、勝手に現象化するんだろうなぁ。というか、その「愛・充足・幸せ」の意図の時点で内面は幸せに包まれているので、エゴが現象化に期待していたような気持ちもなくなってくるんだけど。
それでも、何かやりたいとしたら、エゴが反応したときに、「解釈」を変えることぐらいかな?
「なぜ反応したか?」に対して「世界からの愛」という視点でとらえるというか。
そうすると、結局「感情ナビゲーション」みたいな話にもなるけど。
いろいろつながっている。
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