つまり、途中経過がどうあろうと(実際にそれを手に入れたか入れてないかに関わらず)
前提として持ってる「ない」が結果として叶ってるじゃんってわかった。それを七章に適応するとー七章では全てあるって前提だけどー
お金がある、愛がある、幸せである。全てあるって前提だと
そもそもあるんだから欲する事はできないし、既にあるから何もすることはない。
図式
(前提) (結果)
全てある→全てある
愛がある→愛がある
お金がある→お金がある
幸せがある→幸せがある
このように過程をすっ飛ばして結果と直結してる
だから叶える事はできないし欲することはできない。
前提が「ある」なら「ある」が結果として叶うんじゃないかってわかった。よしおが関係ないって言ってたのはこういう事かって腑に落ちたし、
叶わないを叶えてるってのもわかった。
ループしたり何かやっても叶わないってのは前提であり結果の’ない’を叶えてる。
だから’ある’って認めるだけで終わりなんだってわかった。クレさんの「なる」も同じで、前提を変える事、認識の変更が必要なんだ。
なったら間のプロセスは本当に関係ないんだ。
だって前提が結果と直結してるんだから、本当に関係ない、なったら終わり。認識の変更ってのは自分の前提、認識が今の現実である結果を作ってるっていう事で
結果を前提を変える事で先に変更する、変更できるって認識への変更じゃないかと思う。だから出来る人達はみーんな前提を「ある」にしなさいと言うんだよね
でも出来ない人達は前提を「ある」に出来ない
そして前提を「ある」に変更するためのメソッドもたくさんあるでも本当はメソッドなんていらなくて’今から私は前提を「ある」にする’
と決めるだけでいい決めた事を後からゴニョゴニョ出来ないとか言い出すのは覚悟決めてないから
小学生が’夏休みの宿題はサボらず毎日やる!’と決めたところで
覚悟決めてないから言い訳して結局やらないのと同じ願望に対してすべき努力なんてものはないけど、
わからなかろうが実感がなかろうが、全てあるを前提とする ー自愛も快も全く関係ない
前提を変える覚悟だけはしない事には話にならん
でも出来ない人達は逆をやるんだよね
覚悟せずに、覚悟しないために見せかけの努力をする
そりゃいつまでたってもお預けな訳よ
直結メソッド
たとえば、あなたが台所に行って水を一杯飲んだとする。
あなたは時間の流れに沿って台所まで歩いていき、食器棚からコップを取り出し、水道の蛇口をひねって水をコップに汲み、それを喉に流し込んで水を飲んだ。
そう考えています。
でも、本当にそうでしょうか?
本当は「水を飲もう」というアイデアを思いついた瞬間、既に水を飲んでいたのではないのですか?
あなたが台所まで歩いていったり、コップを取り出したり、蛇口をひねったり、コップに水を注いだりしたというのは…
あなたが「水を飲んだ」という事実をもっともらしく裏付けるために、後からつけ加えたものなのではないですか?
それを仮想の時間線に沿ってつなぎ合わせ、さも納得がいくようにつじつまを合わせ、瞬時に組み立て直して解釈しているだけなのではないですか?
つまり実際には時間は存在せず「結果」しかなく、原因やプロセスについては、つじつまを合わせるために「後付け」しているだけなのではないですか?
それを認識上で時間線に沿って並べ替え、時間の信念どおりに解釈し直しているだけなのでは?
つまり実際には、
「原因」→「プロセス」→「結果」
ではなく、
「結果」→「プロセス(錯覚)・原因(錯覚)」
ではないのか、ということです。
もしこのアイデアが本当だとしたら、ACIMやホ・オポノポノの「全ては既に終了(完了)している」という主張にも合点がいきます。
我々は既に終了していることを仮想の時間線に沿って、一定の速度で(錯覚を交えながら)再生しているだけということになります。もしこのアイデアが本当だとしたら、予知や第六感による直観も何ら不思議ではなくなります。
それらは既に終了しているのであって、それを時間線に沿って逆転再生しているとしても…そして未だそれを経験していないという「フリ」をしていたとしても、「それは既に終わっていて結末を知っている」という事実は覆らないからです。もしこのアイデアが本当だとしたら、アカシックレコードが存在しているとしてもおかしくありません。
むしろ存在していないとおかしい。
ただしそのアカシックレコードは、無限のバージョンをすべて網羅する形で記述されていることになる。もしこのアイデアが本当だとしたら、「現実は幻想である」という主張も説得力を持ってきます。
実際には結果しかなく、原因やプロセスは単に「つじつまが合うように」我々自身が捏造しているだけということになるからです。そして、もしこのアイデアが本当だとしたら…
あなたは願望を実現するために、何もする必要はないということになる。
結果しかないのだから、あなたは単にその結果を選択するだけです。それで完了です。
そのために必要と思われる、どんな物理的変化も時間経過も、信念の変更もクレンジングも現実的努力も、一切不要ということになります。
それらはつじつま合わせの単なる「後付け」に過ぎないのです。
あなたが結果を選択しさえすれば、それらのプロセスは(あなたにとって必要なら)あなたが納得する形で後から生成されるでしょう。
そして、それらをちゃんと時間という信念に合致する形で経験する(と錯覚する)ことになる。わかりますか。
もしこれが本当かと思えば、あなたにとって制限はなくなる。
実現を妨げるどんな要因も消え失せる。
結果しかないのだから、あなたはそれを選ぶだけで良くなる。
文字通り自由自在です。
そうしたら、この世界には充足しかないということが分かる。
そして、あなたを苦しめてきた「不足」という仮想概念は消滅するのです。
これが直結です。
直結とは「あいだを隔てないで直接に結びつくこと(広辞苑)」です。
つまり「直に」「結果である」ということです。直結メソッドとは、
「直に結果であれ」
という実現状態そのものなのです。
これまでは様々な仮想概念や信念を用いて、あなたの意識は結果から分け隔てられていました。
時間、因果、物理的変化、距離、誰かの意向、過去の記憶、自らが自分に課してきた属性…どれもこれも、あなたが今すぐに望むあなたで「在る」ことを、妨害してきたまやかしに過ぎなかったということです。
あなたはそれらのアイデアを利用して、直結することに抵抗してきた。
そんな必要は何ひとつなかったわけです。だから、
「今すぐに叶えてください」
「たった今、そうなってください」
「そのあなたは、問題について心配したりしていないでしょ?」
「その過去は、あなたが今、創り出しているんです」
「潔く無視しちゃってください」
「知覚障害を起こしているんです」
「充足を見てください」
「既にそれはあります」
「実際の物理現象としてあるのです」
…というわけです。
第四章 逆転する時間 ザ・チケット
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