認識の変更の深奥

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こまけぇさんの掲示板ウォッチャー

こまけぇさんの新しい「読者様からのご報告」が更新されて、いつもだったら、しばらくコメント欄がにぎわうんだけど、なんか、今回は妙に静かだった。ああいう、「悟っちゃいました」系の人は、質問しようもないのかな。個人的には「メソッドほとんどやってない、自愛も1~2回」って表現が、ちょっとカチンときました。ほんとに願望全部叶ってんのかよ、って。

そんな中、ねこねこさんという方が、やっぱり同じような違和感を感じていたのか

あくまで一個人としての感想です。
ここ最近の嬉しい報告の内容を見てると
こまけぇこたぁいいから願望実現しようぜ、というブログタイトルに沿った報告ではなく、認識の変更に成功しました!という報告ばかりでよくわからないのですが、皆さん認識の変更をして過去に願望だったものは結局現実で体験できたのでしょうか…?
それとも認識の変更がもはや願望だった?
以前の報告だとありえない展開で叶った、など見ててワクワクするものが多かったので少し気になりました。

【読者様からの嬉しいご報告】~ 自分を蔑ろにしてると気付いて認識変更~/#comment-15308

これ、ほんとその通りだな、と思う。でも誰も反応しねえなと思っていたんだけど、なんだか今日になっていて荒れていてびっくりした。けっこう信頼していた方だったんだけど、かなりガッカリ。

願望実現してないのに、認識変更しましたと言われても・・・それはやっぱり、「日向ぼっこ」という表現にならざるを得ないというか、

「認識の変更」=「日常的にいいことが起こりますよ^^」

程度のところだとおもう。

「瞑想習慣にしたら、いいこと続いてます」、みたいなものだと。

それだと、「本願」叶わない限り、ずっとループするんだよねえ。

認識変更できたと思っても、また元にもどってますよね、的な。

知識さえあれば、それっぽいアドバイスはできちゃうし。

・・・自戒を込めて。

でも、間違いなく、もっと先がある。

下記の記事でこまけぇさんの根本記事をまとめたんだけど、やっぱりこまけえさんの記事はすごいなぁ。

願望実現したかったら、「認識の変更」という何かを追いかけるのではなく、「認識」を好きなように変更すればいい、ってことなんだよな。

こまけぇさんの記事連発

まぁそんな流れの少し前から、ブログはじめる前にこまけぇさんの良記事を個人的にまとめた自分のメモを読み直してた。んでもって、やっぱりいいなぁと思ったことを書いておきます。

まずは世界との一体感とかは意識することをせず、ただ思考が自動であることを徹底的に意識していく。そうすれば、思考の渦から脱出することができます。まずはそこ(「別の領域」「ニュートラル」)からです。そこに立って初めて、自分が世界に対してどのように眺め、それをそのまま創造していたかを少しずつ感覚として知れるのです。つまり、主体性(ある種の万能感)を取り戻せるわけです。

【読者のお悩み相談室】~原因を探る在り方とは!?~|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!

これが本来はデフォルトなのです。この在り方は世界が自分なので、こういう風にしようと選択(意図)をすれば、自然にそのように世界は流れていくのです。それなのに、そこにわざわざ自己(個人)という虚構を持ち出し、展開された景色から自己の記憶や観念とを結びつけて、本来は無限の広がりを持つ世界を、個人という狭くて不足まみれの枠に閉じ込めてしまうのです。

「そんなこと言ったって、どうせ私にはわからない……(´Д⊂グスン」
だからその私と言う前提が虚構なんすよ!
あなたの見えている景色にアドバルーンが上がっていて、そこに「あなたは潜在スピ子です」と表記されているのなら私も主張を改めますが、そんなものはないですよね(あったらすみません)。あなたが誰であるのかという根拠は景色(現実)にはないのです。くどいようですが、自己とは思考による関連付けなのです。
前提の在り方が自己という囲いの中にあれば、そこから生まれる世界も必然、その囲いの外を出ることはありません。今にあれば、その囲いが虚構であることを知り、世界と一体であったことを思い出せるのです。

常識という根が太いほど、その外に出ようとする意識さえ生まれて来ることは稀であります。我々にとっての最大の常識は自分が自己(個人=エゴ)であるということですが、その強烈なエゴの立ち位置からすれば、自分が世界とは分離した存在ではなく、常に一体であったなんていうことは発想すら出てきません。

とにかくこまけぇことを考えずエゴを却下していきますと現実の意味合いが薄れ、消滅していきます。すると何が残るのでしょうか? 

そうです、ただの認識だけです。その認識は反応としての認識ではなく、現実に干渉されない、主体的な認識世界です

(ここは感覚的な表現です。厳密に言葉の意味を捉えようとしないでください)。

そこでは充足でも不足でも、それを「在る」と認識できた時点で、エゴが感じていた現実の定義づけがなくなったわけですから(その障害を幻と見抜いているので)、それが本来の意味での現実となる(知る)わけです。故にタイムラグのない、「願望=実現」(認識した時点で既にある)ということになるのです。

「そんな簡単に却下できないんすけどwww」。だから、却下できるできないと反応をしているその構図(システム)自体が嘘(バグ)なのよ!! その当たり前と思っていた構図が幻だとしたら、後に何が残るか体感してみればいい!! とにかく、五感(現実)ではなく、認識が先!! いい加減わかれ、エゴちんが!!! エゴが定義付ける幻の現実に囚われちゃ、何も変化はしないんですって!!!

立ち位置の話でいくと、廃人時代は叶ってない自分の立ち位置から世界をみてました。
叶ってないからどうにかして叶えないといけないの立ち位置です。
でも、そうじゃなくて、叶ってない自分を叶えてんのは、そう認識してんのはそもそも誰だ?と考えるようになり、その立ち位置で世界をみることにしました。
前提がないじゃなくて「ある」です。
何かを変える必要もなく、全部最初からあるんです。
あとはもう望む自分を選択すればいいだけの話です。

つまり、「自分は●なんだ」と決めているから、現実も●なのだと。
それなら、●以外でも、好きに決めちゃっていいんだ!と。
認識変更前は、「自分=世界」「全てある」「全て自分」「既にある」など、深く理解することは出来ませんでした。
でも今は分かります。
「自分は★なんだ」
「自分は○なんだ」
「自分は□なんだ」
「自分は△なんだ」
と、自分の世界の中から、自分の好きなように決めていい、逆に言うと決めるしかないということに。
そして過去の人生も、このように全部自分の好きなように決めていたんだな?と。
このような過程で、人生がどんどん変わっていっています。

そんな話はいいとして、結論としては本当にシンプルで、せいこさんもおっしゃるように、ただ「この世界で自分をどう位置付けるか」に尽きるんですよね。本当に現実の顔色なんて伺わなくてもいいですから。

ここでもう一度「自分=世界」という言葉の意味について振り返りたいと思います。砕けて言えば、好きも嫌いも、良いも悪いも、充足も不足も、
そう思えばそうなる
という、がんばればチンパンジーのバブルス君でも理解可能な極上のシンプルさです。
そのことを踏まえて突き詰めれば、「自分=世界」を理解できなくても、メソッドがうまく続かなくても、充足に目を向けられなくても、エゴに常時フルボッコにされても、自分のことが嫌いでも、
何を思おうが、何をしようが、願いは叶う
という認識になれば(デフォルトにすれば)いいだけなんです。以前から自愛に絡めて何度か言及していますが、本当にこれだけなんです。これでいーんです! クーッ! どうした! 闘莉王!

まとめ

個人的にここんとこいろいろあって、めっちゃエゴに揺さぶられていたんだけど、おかげで、気づきというか、実践的には、いい感じです。

書きたいことがたまってて、あと2記事ぐらい下書き状態。とりあえずこの記事もいったんアップしておきます。

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