願望はいつ現象化するのか?

結局、そこだと思うんすよ、つまづきがちなのが。

とりあえず「願望は既に実現している」は前提なので区別して、「現象化」について書いてみる

個人的な感触。

「いつ現象化するかはわからないけど、思っているよりは早い」

みたいな感じかな。

先週なんだけど、某ゲームの超レアアイテムが手に入って(課金じゃないよ)、どうだろ、1か月前ぐらいにそれを認識して、いいな~いつかほしいな、ぐらいに思ってたら、意外とあっさり手に入った、という。

めちゃくちゃ執着してたわけではなくて、まさに「あったらいいな」ぐらいだったので。

一方、今週末は想像もできないような、でっかいトラブルが発生したんだけど、まぁそれも過ぎ去ってみれば、結果的に別の問題が解決した・・・。これは、うーん、半年ぐらい前から、「これやだな~、なんとかならんもんか・・」とほおっておいたんだけど、あっさり解決した。

エゴとの癒着

結局、なんですぐ叶えたいと思うのかと言ったら、「今の自分が嫌いだから」というのが大きいのかな、と思った。特に自分は「自分が嫌い」というエゴと一体化しやすい。客観できないというか。

ドラマのアンメットを観てて、「癒着」って言葉がよく出てきたけど、まさにピッタリな言葉で、なかなか、自分と一体化していて、はがれない部分がある。なかなか「自愛」しにくい部分。
あと、あれね、ぬぐい切れない「被害者意識」。「私はずっと不幸だ」みたいなとこ、実際あると思う。

だから、「自分を好きになることが本当の願望」系は、なんだか受け入れがたいんだろう。

反応と関連付け

週末、なんのきっかけだったか忘れたけど、「あ、反応ってこういうことか」と思い当たることがあり。

「エゴの自分に気付くこと」は分離ではないよ。
今までエゴ=すべての自分って考えていたのを、
実はエゴは自分の中の一部でしかなかったんだ、本当の自分はもっと大きいんだって気付くこと。

エゴは目の前で起きる現象、過去、観念に対する一種の条件反射でしかない。
しゃっくりみたいに、「何故か起きてしまうもの」
しゃっくりを無理やりとめようって思っても苦しくなってしまうだけでしょ。
ただ気付いて「しゃっくりしてるなぁ」って考えていればいずれ消える。

ある現象が起きる→エゴ(条件反射)が起きる=私そのもの
だと、起点は現実になるよね。

現実→エゴ(条件反射が起きる) ←もっと大きい意識がそれにが気づくだけ

エゴ=自分そのものでないって気付くだけで、もうほとんど問題は解決する

【2週間で激変】j4TFさんー04/エゴ=自分そのものでないって気付くだけで、もうほとんど問題は解決する | 引き寄せの法則と潜在意識で願望実現

「何かの出来事が起きる」→「嫌な事」とラベル付けする(反応)→「やっぱり自分は認識変更できてないんだ(関連付け)

のループがはっきりわかった

はじめに実像ありき

と、またそこから、あれこれ考え始めていたんだけど、まぁ、願望実現とか認識変更とか関係なく

「いい気分でいたいから、いい気分でいる」

ということに尽きるのかな、と。

なんらかの願望が現象化したときに、心のどこかから「やった~」という感覚が湧き上がってくるわけだけど、それは、どんな種類の願望に対しても、一緒・・・それ感覚こそが、自分にとっての「実像」

スージーさんのこの記事も、「認識している意識」だと思うと、いまいちつかみどころがなくなってしまうけど、「実像」のことだと思えばいい

とにかく、エゴ・自我は、私たちが「私」「自分」だと思っている部分です。

しかし、これまたこの記事に書いているように、「自分」の正体・本体とはエゴ以外の大きな意識であり、完全無欠の完璧な存在です。

ですから、私たちはすでに何でも持っているし、何でもできますし、何にでもなれるのです。

でも、そんなことは私たちのエゴは当然知らずに生きてきました。

エゴの自己否定感が強ければ強いほど、自分は何も持っていないし、何もできないし、何にもなれないと思ってしまいます。

そしてエゴは、何も持っていなくて、何もできなくて、何にもなれない現実を見続けます。

でも今、エゴは本当の自分は完全無欠の完璧な存在だと知りました。

ピンとこなくても、ただそれを受け入れればいいのです。

私は個人的に、願望実現のためには、というか、理想の人生を送るためにすることは、これだけでいいと思っています。

受け入れるために、何の条件も制限もありません。

根拠がないと受け入れられないと思うのもピンとこないのもエゴですし、

よくわからないけど受け入れてみようと思うのもやはりエゴですが、とにかく

ただ受け入れることで、

大きな意識=本当の自分と足並みが揃うというか、同じ視点に立つというか、同じ方向を向くというか、一体化するというか、言葉は何でもいいですが、そんな立ち位置になります。

そうすると、エゴが頑なに保持していたブロック的信念・観念も自動的に無効になります。

そして、やがてエゴにも「ある」「叶っている」が知覚できるようになります。

お気づきの方もいると思いますが、現実とはエゴありきです。

完全無欠の完璧な本当の自分は、ただ存在しているだけです。

それに足並みを揃えるのも、揃えないのも、エゴが判断することです。

弊ブログ主が個人的に「これだけでいい」と思っていること – すべての願望はすでに実現しています

結局、これを求めてる

さっきの「エゴとの癒着」の逆の言い方をしたら、

「こうなったらいいなという願望」「(不足感を伴う)重度の願望」になるのは、ほぼほぼ安心感の影響が大きいように思う。安心感がないから、日常のよいことが目につかないし、嫌な事ばかり目につくようになる。だから、目下の「本願」といわれるものの重要性が非常に高くなり、「すぐ叶えなきゃ!」となる。

で、それが、かえって、現象化を遠ざける。

毎日たのしいことが多いなぁ~と思ってたら、いつの間にか本願が叶っていたとか。本来はその形のはず。

必要なのは、やっぱり自分の感覚を信じること

どうしても、こまけぇさんやその他達人の成功事例に合わせようとしていた自分はいる。

「2週間で現実が変化しだした・・・」というのを、いつまでも、自分がうまくいっているかどうかののベンチマークにしちゃったり。

あとは、どうしても、「自分=意識」系になって、私「はエゴとは別の存在です」みたいなアプローチは、エゴにかかわらない。

いまここに、「完璧な幸せ」があることだけに集中する

あと、やっぱり、これもいったい何度書けばいいんだと思うほどのアレだけど、

自分=意識

よりも

自分=愛

のほうが、現象化はする。

だから、自分のいう「実像」は、「観察する視点」ではない。観察されるもの。

あとは、「チューニング」の問題

「いい気分でいなければならない」となってしまうと条件だけど、逆に、それを逆手に「嫌な気分でいてもいい」みたいな、なんというか、自分の内面を放置していることがあるように思う。特に、いったん崩れはじめると、なかなか、もとに戻りにくい。

「風船自愛」もいいんだけどね・・・ただ、不快なエゴをどうこうしようよりも、単純にエゴがどうでもよくなるほど、いい気持ち(=実像)を感じていることが大事。

なーんて。半年前に気づいているのに・・・

やっぱり、これまでの自分の実践で結果がでるアプローチとしては、「何もしなくても勝手に叶う」を採用しないほうが、いいな。充足だけは、積極的に感じに行く。現実関係なく、いまここに無条件に存在する実像を、感じる。

「いつか完璧な認識の変更が起こって、ネガティブとかまったく気にしなくていいようになる」とか思ってたけど、とりあえず、今はこの自分の感覚を深めて、嬉しい現象化が起こったほうがいいや。

実践すべし。

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