願望実現の本丸「既にある」

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ちょっとよくわからなくなってきたぞ。

というか、「既にある」がわかるようになってきた。

「認識の変更」とは?

「願望実現」のためには、「認識の変更」というよりも、「既にある」がわかるようになるほうが大事なんじゃないかと思うようになって。

というか、何回か書いているように人によって「認識の変更」の意味合いが違っているので、このブログでもその時の感覚で混在しているんだけど

「認識の変更」=「自分はいない」「エゴは自分ではない」

みたいな、「悟った」みたいなニュアンスで使っていることが多いと思う

そうじゃなくて、少なくとも願望実現については

「認識の変更」= 「願望」についての【認識】が、「叶っていない」から、「叶っている」に【変更】される

という、単純な話のような気がする

これまでの自分の個別願望を振り返っても

・自己観察してて別の領域に浸っていても、叶わない

・イメージングのほうが、現象化はする

ってとこは、体感としてあるし。

「なる」みたいな話でもあるし。

それは、状況に関係なく【既に】【ある】

無条件だから、関係ねえ!

そう、【既に】、あるんだけど、

”既にあるがわかったら、既にあるが実現する”

みたいな、妙な条件設定をしていた自分に気づいて。

既にあるは、そもそも無条件。

エゴがどうとか、本当の自分がどうとか、そんなこと関係なく、「既にある」は揺るがない。

というところで、なんだかこれまでは

「認識変更状態をキープしないと、”既にある”が適用されなくなってしまう」

とか、いつの間にかエゴが条件付け設定をしてて、でも、そんなこと全く「関係ない」んだ、とわかったら、すごく安心もできるようになった。

先月ぐらいから書いてる「日向ぼっこ」関連でいえば、「認識の変更」だけを追いかけてしまっていると、

願望が叶わなくても安心

みたいになってしまっているところがあると思う。

まとめ

願望実現したいからこの世界に入ったはずなのに、いつの間にか目的と手段が逆になっていて、自分がバカなんじゃないか、という気もしてきているけど。

「認識の変更」を追いかけてきたことも、全般的に人生の質が向上する、思いがけないラッキーが連発する、みたいなことは確実にあるし、無駄ではないんだけど。

「気づき」とか「わかった!」って感覚の快感に捉われて、本質を見失っていたかな。

「エゴとしての願望もガンガン叶えてください」というのが、108さんの望みだとおもうし。

なんというか、これまで書き連ねてきた記事を読み直せば、何か共通の本質がわかるかなと思っていたけど、そうじゃないな

「既にある」だけが、絶対的な真実。

その軸をずらさずに、意識していれば、もっとストレート変化が出てくると思ってます。

(というか、さっそく仕事面でめっちゃ大きな動きがでてきた)

とはいえ、認識の変化が進んだから、「既にある」が確信できるようになってきた、という部分もあるけど。

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